本来的にはあるものの

 

本来的には、誰かと一緒にいるというのが得意でなく、ひとりで過ごしているのが気楽でそれで良いやと思うフシがあります。

それでも、たくさん話を聞いてもらいたいとか、楽しい時間を分かち合いたいという思いも一方ではあるものです。

いつもではないせよ、そういう機会もあってほしいわけです。

ひとりでいれば、自分ひとりで完結するかもしれませんが、果たして広がりや深みが出るのかどうか、にじみ出るような曖昧さも潔癖なくらいにないかもしれません。

そこでの線引きは明確で、誤謬も生じることはないでしょうが、次につながるとか、新しい何かとか、自分の行き届かないとこから現れることもないので、ある意味は順当なところで落ち着くものです。

そういうものは、どこか得体の知れないような"淡い"から出てくるものでもあるので、それは人との関わりの中からでしか現出しないものである気がします。

そういう時に、どのようにとらえると今の状況を変化していくことができるのか、決して自分に合わないことをやろうとか、無理をするということではないところでの工夫をしていきたいものです。

自分のクセや好みはあるとして、両立したり共存したりして、ある一部ではそうなのだということにしていくのが最良です。

普段、あまり多く人といることを望まないだけに、関わっていること自体ありがたいと思うし、親しさが増すようであれば、一層嬉しいなという思いを抱くものです。

時間や機会は決して限りないものではなく、そういうものを同じくしている、このありがたみをひしひしと感じることがあります。

ひとつひとつの場面で、これを深刻に行ってしまうと、どこか肩肘張ってしまいますし、相手の人に妙な印象を与えることになるかもしれません。

こういうものは気持ちはこもっているけれども、あくまでも軽やかにして、重荷にならないようにするのが良いでしょう。

ひとりとの関わりにしても、全体的な関わりにしても、少し軽いくらいの方が、お互い負担をかけ合うようなことにはならないはずです。

いろいろな人と広く関わるのも良いでしょうが、必ずしも数の多寡ではないし、個別の関わる深さばかりでもないのが、少し思案のしどころです。

これも、たくさん考えたからどうということでもなく、楽しさを増すようにして、わりと感覚的に振る舞うのが良いのかもしれません。

少し切り口を変えてみれば、自分の意識も身の回りも変わっていくはずで、それを実践のうちに見出していけたら幸いです☆