その先々も見通しつつ

 

はあちゅうさんの「半径5メートルの野望」(講談社文庫・2016年)を読んでいて、いくつもの視点・観点から述べられてはいるのだけれど、意外と、最近意識している「脚下照顧」という言葉と相通ずるものがあるように思いました。

「脚下照顧」においては、"自分の足元を見よ"という字義通りの意味合いの他に、自分の普段の振る舞い、居住まいを見直してみなさいということも含まれていますし、真意としてはむしろこちらの方になります。

他の人がどうとか、自分の過去がどうとかは、何かを判断したり、選択するような時にどうしても参考にしてしまうことは多いものの、それはあくまで参考にする程度で、結局のところは、自分が本当に何を望んで、どうしていきたいのかに尽きるような気がします。

思ったらやってみることが重要なように、自分の身の回りの手の届く範囲から充実していくことで、それの規模が大きくなったり、願っていることがかなったりするのかもしれません。

誰かに喜んでもらおうとか、誰かに優しくしようとか思いながらも、自分自身の心境が満たされていない場合、果たして十分に働きかけることができるか、それははなはだ不安な思いに絡められてしまうものです。

また、これからの未来・将来について思う時にも、たとえ今が思うようになっていないとしても、少なくとも充実しようと思っていない限りは好転することもないように、ここにおいても自分自身がある程度は満たされていないと、何らかの気概も生じてこないように思います。

比喩的な場合においても、自分の足元が見えないうちは、どの方向にどのように向かうかだなんてことは明らかにはならないのだから、自分自身の心中も照らすようにして明かりが灯るように、誰かとの関係にしても、これからの展開にしても、同じようにして確かな"先取り"ができている必要があると言えるでしょう。

時間において歩を進めるのと、空間として先に進むことが、前に進むことの相似であるように思うのであれば、村上春樹さんの「走ることについて語るときに僕の語ること」を読んで、走ることと書くことの関係、あるいは生きていくこととの関係にも考えを及ぼしていきたい今日この頃です。

この先がどうなるものか、楽しみながらこの身を運んでいくことにしていきましょう☆