たとえ離れていても

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長らく連絡を取っていないとか、関わっていた時間より関わっていない方が長いとかなれば、それはもうほとんど他人ではないか、そのように思うこともあります。

もちろん仲の良さや睦まじさのようなものは、何かの数字で計れるようなものではなくて、たとえ関わる時間や機会は短くても親しくなることはあるし、うんと大切に思うことだってあることでしょう。

必ずしも、時間の長さや、関わる機会の多さばかりが仲の良さを表すものではないということです。

とにかく大切なのは、どれほど時間や距離が離れていようとも、また、実際に関わる可能性が少ないにしても、今も元気でやっていてほしい、どうか幸せな気持ちで日々を過ごしていてほしい、そのように思えるかどうかであるように思います。

時間があると、FacebookのタイムラインややLINEの履歴を見るなどして、ここで連絡してみるとどうなるだろうということも考えるわけですが、それも過去の思い出(のようなもの)にすがっているような気がして、結局はやらないものです。

そこで生まれる何か、はじまる何かがあるというものか、これまでも連絡を取っていないのだから、今後もそうなる可能性はどうにも低く感じる気がしてしまいます。

もしもそういうことがあるのなら、とやかく言ったり思ったりすることなく接触を試みているでしょうし、それが以前のどこかであれば、今に続いているということも考えられます。

一方で、連絡先すらわからない、今はどこで何をしているのかわからない、それでも大切に思う人もいるわけですが、この場合は具体的に何ができるわけではないので、また会えれば良いなとそこはかとなく思うばかりです。

そのために自分のできることは、心身ともに健やかであること、そうやって過ごせる日々を慈しむことくらいかもしれません。

自分でアクションを起こすにしても、大きなものによってもたらされるにしても、そうやって元気でいるというのが準備の最たるもののような気がします。

そこから、思いつくことのひとつひとつを活動として、これからの出会いも楽しみにしながら、また思わぬ再会にも期待をかけていく、あくまでも前向きに、これから起こるであろう何かに期待して進んでいくのが良いように思います☆

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