どこまで走るのか

 

時間のある時には、少し汗をかくとか息を上げようと思って、近場をグルリ走って回ってみるわけですが、特に長い時間を走ろうとも、長い距離を走ろうとも思っているわけではありません。

それでも、わりと定期的にそうしているのが続くようになってくると、果たしてこれはどこに行き着こうとしているのか、一度にではないけれど時間や距離がそれなりに積み重なってくることについて、ふと考えることがありました。

特に走り出してしばらくの時間は、やがて自分に課したゴール(のようなもの)が訪れ、今日の分は終わるのだけれど、この走ることや走っている道が何につながっているのかについて思わず考えてしまうものです。

最近になって手に取った村上春樹さんの「走ることについて語るときに僕の語ること」(文春文庫/2010年)を読んでいると、それに対する解釈の糸口を、必ずしも能弁に語れるようになったわけではないけれど、かなりの部分でわかり得たような気がしました。

これは"走る"ことについての振り返りであり、自身でも「メモワール(個人史)」かもしれないとあるように、小説家としての歩みと走ることの密接な関係が記されています。

自分自身の今の気持ちとしては、どちらかというと"書く"ことについて、文体とかテーマの取り上げ方を知りたくて手に取ったわけですが、"走る"こと自体もその一部というか、分けて考えることにあまり意味がないように思いました。

走ること自体の肉体的な動きや、前に進むとか遠くに行くとかの物理的な移動が、そのまま小説家や人としての成長や時間を経ながら進んでいく様子、精神的な移り変わりといったことの言い換えであり、見え方は異なっているとしても本質的には同じようなことを言っているなと感じたものです。

この場合では、走ることはそのままひとつのメタファー(隠喩)であり、仕事でも生活全般でも走ることを通じてわかることが多くあるということなのでしょう。

具体的な何かを目指して懸命に取り組んでいく場合に、今のここから理想とする地平にまで行こうとするわけですが、逆に言えば、今の時点から愚直にはじめていくしかないわけです。

どこまで行けるものか、どこまでできるものか、自分の中にある才能や努力といったものを開花させるためにも、同時に走ることもしてみるのがきっと多くの気づきをもたらすように思います。

そうすれば、前向きに取り組む姿勢が、走る時の足を一歩ずつ前に出す視覚的なイメージと置き換わることもあるでしょう。

あるいは、視点をいくつか持ちながら自分のことを見ることもでるだろうし、具体的にもどれくらい進んでいるのかもわかるのかもしれません。

たとえ目指す地平は遠くとも、足元の一歩からはじめていくしかない、それでも前に進むこと自体は止めないようにしたいものです☆