ないものを注視するとして

 

自分の中にない発想というものは、端から拒むようなものでもなくて、案外そのタイミングで取り込めるかどうかを試されているのかもしれない、そんなことを思う時があります。

美学・哲学の類として、一切外部の影響を受けないで自分を貫くのも良いけれど、それは"気づき"とか成長の機会を逸してしまっているのではないか、そのようにも考えられるものです。

それが、特に誰かと関わるようなことである場合、お互いの働きかけのひとつひとつが作用し合っていくために、発言や発想の元がどこにあるのかは、あまり関係がなくなってくるということも言えるかもしれません。

良いものは即座に取り入れるし、より良いところを目指していくような、そういう心意気が感じられるのであれば、細かいことを気にしすぎない方が賢明なのでしょう。

そういうバランスにおいては、自分を主張しすぎるとか固辞してばかりなのも頑迷な感じがするし、だからといって迎合しすぎなのも自分の意思がないようにもなるし、このあたりの調整が結構難しいような気がします。

柳が風を受けてもしなやかであるように、自分自身はしかと地に足着けながら、その一方で、その時々に合わせて柔軟に対応できるというのが、上手な振る舞い方なのかもしれません。

あるいは、自分の庭のような、一定の範囲や領域は保っておきながら、そこに収まっている/収まっていないことを知り、新たに加えるとか、手持ちを放出するのでも良さそうに思います。

おそらく、普段から自分はこういう考え方を(基本的には)しているとか、振る舞いや態度においての傾向や特徴を持っているとか、自分の中の"ある/なし"を見極めておくことが必要になっているのでしょう。

自分が何を持っていて何を持っていないのか、それを知らないでいるばかりでは、新しいことも知りようがないものですし、取り入れるかどうかの判別もできないことになるものです。

息を吸って吐くように、いつも同じというばかりではなく、少しずつ変化もつけていく、繰り返しのようでそうでないような、絶妙なさじ加減ができたら良いのかもしれません。

よく言われるように、"変えるものは変える、変えないものは変えない"、それだって絶対的な特定のルールがあるわけではありません。

そうやって行ったり来たり、右往左往しながら自分の行動や思考の範囲が自然に収まってくるのでしょうから、いつも「ない」ことに一喜一憂することはないのだなと思います☆