もうひとつの視点を持つ

 

先日、カラオケにて喜多村英梨さんの歌を歌った時に、

もちろん、音の高さ(キー)は調整しましたが、

歌い方を似せてみるということで試してみました。

 

その時に、自分は男で女性の歌を歌っている、

しかし、その歌い方は女性に寄せているということで、

自分の中では、「女性的」というのか「乙女性」というのか、

そういうものを合わせに行っている感覚がありました。

 

このあたりは、生物的性差(セックス)や、

文化的性差(ジェンダー)が絡んでくるように思いますが、

じっくり考えてみるには、面白いのではないかと思いました。

 

たとえば、自分自身の傾向としては、

男らしく振る舞うことが、自分個人として振る舞うより、

大きく優先されるような状況・場面では、

どうしても窮屈に感じるところが大きいものです。

 

そして、そういう時にはあまり親切ではないというか、

何も言わず、何もしないことを選びがちになっているのはあります。

 

自分の存在が、人間であるという土台の元に、

男性であるのと、いち個人であるというのがあって、

それが色濃く重なる部分と重ならない部分の差異によって、

振る舞い方に違いが出てくるように思いました。

 

自分個人としては、それなりに自我の主張みたいなのもありつつ、

生物学的に父親と母親の間に生まれているわけですから、

男らしさや女らしさ、父性と母性みたいなのが適度に混じり合って、

それで振る舞うのが、ある意味では"自分らしい"となっています。

 

そこでは、男らしいとされる勇ましさや力強さもあるし、

女性らしい配慮や気配りも同時にあるでしょうから、

男だから、女だからというようには見てもらいたくない思いがあります。

 

勝手気儘に個性を強く主張するというよりかは、

思ったことは、できるだけそのまま言ったりやったりするのが良いし、

その内容の是非については、改善していくのが良いと思います。

 

また、今回のことから考えれば、女性にしても、

考え方や価値判断が現実的で合理的な方を好むのであれば、

それは、かえって男らしいということになるかもしれません。

 

自分自身の内側を見つめてみても、結局のところは、

困っている人がいれば手を差し出して助けるし、

力の必要な仕事はするし、シャツのボタンつけだってするし、

やれることをやって、それが増えていることの方が、

より多くの人に喜んでもらえるようにも思います☆