先に言葉ありき

 

これは何度でも取り上げたくなるような事柄であるのですが、自分でも誰でも、どのような言葉遣いをするかによって、その後どのような道のりをたどることになるのか、そのことに強く興味を持ち続けていたいと思っています。

小難しく言うと、文体とかエクリチュールみたいな話になるし、ともすれば"運命"のような仰々しさを持つような言葉も、内容と紐づけて大いに活用したくなるかもしれません。

難解さにひるむことなく、正面から真っ向勝負を仕掛けるのも良い心がけですが、もう少し身近な事例を取り上げながら、それでもって本質的な部分までグイッと迫るようにして近づいていくことにしましょう。

また、日々の行い、日々の思考や感情のそれぞれの積み重ねがあって、それがひとかたまりとなるうちに、生活という範囲だけでなく、やがて人生という全体的なものに集約されていくということは、決して忘れてはいけないことのひとつであるように思います。

何を思って過ごしていくのか、それによって人それぞれの歩み方が異なるという点で、今一度考えてみたり、折に触れてとらえ直してみたりするのも良いことなのかもしれません。

「はじめに言葉ありき」とは、キリスト教の聖書の文言にあるということですが(新約聖書ヨハネ福音書」)、人間の存在やその思考や感情といった諸々に先立って、最初にあるのは"言葉"ということです。

日本においても、50音あまりで(ほとんど完璧に)構成されている「いろは歌」があるように、あるいは、仏教もお経を唱えることがあるように、内容に先んじて言葉にまるわるものがあるように思います。

このあたりは、個別に掘り下げていくとわかることは多いでしょうし、興味深い事柄もあるわけですが、今はまだごく簡単に広く見渡していこうと思います。

平たく言えば、思考や感情においては、いろいろなものが脳裏や胸中に巣食っていると思いますが、それがどんなものであるのか、自分で把握するにも、誰かに伝えるにも何かしらの言葉が必要なだと感じるものです。

赤ちゃんの喃語のようなものでは、何も明らかにすることはできないために、言葉を重ねていくことで、茫漠としたものに輪郭を与えていくことができます。

たとえば、カメラで露出やピントを合わせていくような感じでしょうか。

冒頭の内容にも関連づければ、どこかに向かうにしても、漫然とどこかへ進むよりかは、地図で今の地点と行き先を知ることからはじめるという感覚に似ているのかもしれません。

そのために言葉を用いるということでもあるのですが、それは今後も引き続き考えていくべきことのように思います☆