各自が世界の真ん中に

 

お互いを見つめ合うというよりかは、

何か別の、同じ対象を眺めている場合において、

自分が思うように、相手も思っているのか、

これは確かめようがないことではあります。

 

思考の枠組みや、体験や経験の背景が異なるので、

そこでの相違は当然のように現れてきます。

 

たとえば、"赤い風船"を見るにしても、

"赤い"に注目する人もいれば、

"風船"に注目する人もいるわけですね。

 

ある意味では、自分と同じように見るというのは、

ほとんど不可能と考えて良いのかもしれません。

 

それはまた逆もそうで、誰かの考えを、

一切違うことなく知ることはできるのかを想像すれば、

その困難の具合を知ることになるでしょう。

 

それでも、全体における共通認識であるとか、

常識であるようなことを、しきりに知り合えば、

その差異は多少は縮まりもしますし、

そもそも差異があることを知ることで、

何らかの対応もすることができそうに思います。

 

個である自分自身とわかり合えるかとは異なる次元で、

それぞれが各自のとらえ方をしたとしても、

いわゆる良識的な言動や振る舞いをしているのならば、

それは何ら損なうことなく良い影響を及ぼしますし、

その前提を慮ることは十分にできるのかなと思います。

 

時々、自分が思っていることは妥当なのかとか、

同じ思いを持っている人を知って嬉しくなるとか、

普遍と特殊について、思いが及ぶようなこともあります。

 

そうして、自分と世界も分け隔てることのない感覚、

"今、私は、ここにいる"ということを思うものです。

 

そこで、他の人はどう思っているのか、

不思議に思うようなこともありますが、

世界において、自分がいること自体は、

この主観において観察しているので、

完全に誰かに成り代わるというのは、

基本的には難しいことかなと思います。

 

また、得手・不得手はそれぞれにあるでしょう、

誰かを見て「隣の芝生は青い」と見ることもあるでしょうが、

必ずしも良いものであるかはわからないものです。

 

そういう良いかどうかみたいなのを全部ひっくるめて、

あなたにはあなたにしかない魅力もあるわけで、

結局は、個人が主体的に生きていくことが、

何より良いことなのだなと思います。

 

なかなか表から見ると、そう考えているとは、

おそらくわからないことのように思うでしょうが、

心の中では、そう考えていることを、

いくらかでも思ってもらえたら幸いです☆