幸福追求論・序説 <その2>

 

<その1>からの続き…。

気がつけば、かなりの(もちろん感覚的な)紙幅を費やし、

<その1>で早くも12,000字以上になっているので、

ここはぜひとも適度に休憩を挟み、トイレに行ったり、

コーヒーを淹れたりしながら、読み進めてもらいものですし、

場合によっては、少しずつ時間で区切って、

読める時に読み進めるスタイルでも構いません。

 

そうして、読む態勢になったところで、

続きも、張り切って書き記していきますので、

しばらくの時間を、どうぞ楽しんでもらえたら本望です。

 

 

そうして、ここでひとつ公式のようなものがあって、

「好きーセックス=愛情」というものがあります。

 

たとえば、誰かのことを気になって、好きになったとして、

それが感情の純度100%の好きなのか、

距離を縮めて、その唇や肌、髪にに触れてみたいという、

性的なことも含む身体接触を望んでいるのか、

そういうものを加えたり、差し引いたりしてみてこそ、

愛情の度合いがわかるというものです。

 

確かに、このあたりは先ほどの恋愛と結婚の例のように、

感情と行為を分けて考えつつ、愛情を考えるのがわかりやすく、

もしも、好きな気持ちばかりがあるのでは、

どうにも現実的な距離は縮まりにくそうですし、

逆に、肌を重ね合わせたい性欲全開では、

何か、身も蓋もない欲情のみということになりそうです。

 

片思いは純粋であるなんて言い方もあるのは、

こういう肉体接触を介在しないことがあるからなのでしょう。

 

そうして、これの3つうちのどれも100点までですよとか、

愛情の総計1,000ポイントでバランスを考えてくださいという、

限りのあるようなものでない極めて相対的なものですし、

どこの割合を大きくするのかどうかは、

個人や相手の考え方に応じて変わってくるものだと思います。

 

それでも、好きな気持ちを推し量るには、

セックスの要素を分けてみるというのが良いと、

そういうことになるのではないでしょうか。

 

 

それに付随して思うのですが、

人間が、特に日本においては一夫一妻制で、

一応、特定の相手と性行為をするのが望ましいとされていて、

結婚という制度に、全部を詰め込もうとしているのですが、

文化的・社会的な生物として、成り立たせるためには、

先ほどの恋愛、結婚、セックスのそれぞれの要素を、

できるだけこの順番でこなすのが良いとされている気がします。

 

逆説的に言えば、行為としてのセックスでは、

その人の日頃のものの考え方や振る舞いが、

それこそ裸の状態でありありと現れてくるので、

スタイルやテクニックだけにと留まらないわけです。

 

そこでもしも物足りないなんてことになれば、

愛情としての部分や、人としての情感がない、

単に、動物的で即物的なことになってしまいます。

 

そういう意味では、一定の好意=好きな気持ちがあってこそ、

ある程度は、相手のことを少なからず大切に思えるのだし、

別の観点で、他の良いところを見つけることができたり、

その後に人間的な魅力を増したりすることもあるので、

基本は一期一会としても、ある程度の時間の長さを伴うように、

時間的な射程を長く見積もってみての、

お互いのやり取りが必要だなと思うわけです。

 

そういう長い時間の流れで物事を見る見地というのは、

そのまま、即物的なものだけで物事を判断しないことで、

人間だからできることなのかなとも思います。

 

 

ここで、少しライトな内容も取り上げようと思うのですが、

女性の胸の大きい/小さいところではないところで、

ひとつ申し上げておきたいことがあります。

 

そもそも、内容が内容だけなのもありますが、

果たして、女性が読んでいるのかという疑問も生じつつも、

もしも少しでも今より大きくしたいとか、

場合によってはカタチを良くしたいとかあると思いますが、

そこで、自分でマッサージをしている人もいるかも思います。

 

しかし、それでは逆に縮小してしまうらしく、

ここでは、意中の男性にマッサージしてもらうことで、

女性ホルモンが多く出て、より女性らしいスタイルや、

カラダのラインになるそうです。

 

おそらく、スペンス乳腺のことを知っていると、

ここのあたりに密接に関係してくるように思います。

 

ここでは、私が女性の胸が気になるということはさておいて、

極めてライトに受け止めてほしいなと思うところです。

 

また、男性諸氏に伝えておきたいことで言えば、

意中に女性に対して、「好き、かわいい、キレイ」と、

言葉にして好意を何度も伝えることで、

そういう人と一緒にいられることをかみしめて、

自分の幸せの実感が高まりながら、

より好意を持つようになるそうです。

 

そして、それを多く言われている女性は、

これまた女性ホルモンが多く分泌されることによって、

より多くの魅力を発揮することになるので、

あるところでは「一石十鳥」の効果とも言われています。

 

 

そうして、世の中の夫婦やカップルで、

本当に、お互いのことをわかり合っているような人たちは、

どれくらいいるのだろうかと、質問したくなってきます。

 

あるいは、かっこいい/かわいい人と知り合いたいと思い、

いつもそれを願っているのだとしても、

自分もそういう魅力的な外見や容姿なのかというのは、

相手を知るようにして、自分を知る機会にもなるものです。

 

こういう、相手がどういう人であるのかは、

友人関係においてもそうで、自分の合わせ鏡のように、

自分の内面を反映するところが興味深く思うところです。

 

そうして、どちらが先ということでもなく意気投合し、

一緒にいる時間が多くなるにつれて、

どこかで行為としてのセックスも介在してくると思います。

 

そうでなくても、デートに出かけるとか、

会話を楽しむようなことが多くなるでしょうが、

相手に多くを求める人もまた、多い気がします。

 

自分を幸せにしてほしい、楽しませてほしいというように、

受け身の態勢で、それでコトの正否ばかりをいうようでは、

何となく対等な関係でないように思えてしまいます。

 

ここでは、内田樹さんがレヴィ・ストロースを引用しながら、

"官能"についてブログで取り上げているのですが、

自分の官能は、相手の官能によって賦活されるように、

そして、相手の官能はまた、自分の官能に賦活されていると、

あなたと私の、どちらが先でも後でもないようにして、

いろいろな喜びを得ていくのだろうということです。

 

簡単に言えば、私が笑うのはあなたが笑っているからであり、

あなたが笑っているのは私が笑っているからで、

そうして、高め合っているというのは見て取ることができます。

 

行為としてセックスをする場面だけでなくても、

会話やいろいろなやり取りをする時に、

ただ相手の出方を待つような態度・姿勢であったり、

あまり反応がないような"マグロ"では良くなくて、

お互いの参加意識とでもいうような積極的な態度があってこそ、

あなたも私も楽しい時間を過ごすことができる、

そのように思えてならないのです。

 

そうして、二人が交互に組み合うようにしている様子は、

DNAが二重の螺旋構造であるように、

顕微鏡の世界のミクロで成り立っていることが、

身近な普段のところでもあてはまるようにも思い、

これもまた、非常に興味を覚えるところです。

 

 

生物学者福岡伸一さんの「生物と無生物のあいだ」で、

DNAの二重の螺旋構造を研究しているのが、

二人のペアの生物学者だというのがあって、

これまた内田樹さんのブログに言及があります。

 

こういう発想を男女ということに置き換えてみれば、

自分の個人としては主観ではあるけれど、

客観的に、どういう人と一緒にいるのが、

生命的な振る舞いとしては良いのだろうと思えば、

単純に、気持ちがドキドキするだけではないところで、

魅力を感じ取るキッカケにもなるのではないかと思います。

 

そして、自分の主観があるのと同様に、

相手の主観も当然あるわけですが、

自分の主観を相手の主観に置き換えてみる、

そうして、お互いがお互いの立場に立ってみれば、

自分で思う以上に、あなたと私のことがわかるかもしれません。

 

結構、こういう主観と客観とか、あなたと私のように、

どういうところに立脚するかによって、

物事の見え方は異なってくるのはありますので、

これまた、柔軟かつ多様に考えられるのが、

自分の理解や相手の理解が、促進されるような気がします。

 

 

あとは、だいぶ以前に目にしているもので、

スタンダールの「恋愛論」があるのですが、

そこで、"感情の結晶化"みたいなことがありました。

 

ここでは、お互いが一緒にいない時間であっても、

相手のことを大切に思う気持ちがあれば、

それは結晶のようにして、少しずつ大きくなるような話で、

だから、郷ひろみさんの「よろしく哀愁」での歌詞が、

"会えない時間が、愛育てるのさ"とあるのは、

非常に理にかなった歌詞なのだなと腑に落ちた経験があります。

 

 

男女の多く、まずは出会うところからはじまって、

会話や電話、お茶をする、映画を観るようにして、

次第に親密になっていくのが好ましいのですが、

そのためにも好意を持ってもらうことが必要になります。

 

そこで、ひとっ飛びに交際や結婚を申し込むわけにいかず、

少しずつ段階を経るのが良いと言えそうです。

 

好きとか愛されるとかでは、"好きの5段階説"があって、

1. 愛されている

2. 惚れられている

3. 好かれている

4. 興味がある

5. イヤではない

多少の言い方の違いはあっても、

上記のような段階で考えることができるというのです。

 

そして、5番目以降では、嫌われる方向に向いていくので、

最初の段階としては、嫌われていないところから、

イヤではないというように進んでいくのが良いわけです。

 

そうすれば、あとは好きになるかどうかの流れになるので、

その分岐点をどう乗り切るかなのですが、

ここでは3つ心がけることがあって、

挨拶ができる、清潔感がある、自慢話をしないとなり、

日頃接していて違和感を感じないのが前提にあるようです。

 

何事も焦らずじっくりと続けるのが良いものですし、

基本のところを忠実に守るのが、

かえって近道ということにもなりそうです。

 

 

そうして、ここでは異性ということなるのですが、

男女問わず誰とでも仲良くなれることは、

結局良い出会いを運んでくるような気もするので、

前述の坂本龍馬を取り上げながら、

このあたりを考えていきたいと思います。

 

坂本龍馬を取り巻くあたりでは、言いたいことは多くあって、

それでも伝わるようにはどうすれば良いのか考えるのですが、

まずは、福岡伸一さんの「生物と無生物のあいだ」に、

原子の"平方根"の発想があって、

それを読んだ内田樹さんが武道的に応用できると思い、

そして、さらにこれを読んだ武田鉄矢さんが、

坂本龍馬を説明するにも役立てるとあって、

最後に、私がこれらを通じて読んだところで、

それぞれの内容を理解するとともに、

たとえば、異性と行為としてのセックスをするのにもさえ、

取り込んで応用できるのではないかと思った次第です。

 

このあたりを詳細に繰り広げていくと、

引用に次ぐ引用、言及に次ぐ言及になったり、

それぞれが取り組んでいる課題の内容であったりと、

かなりコトの順番とその行き来がややこしくなりそうなので、

大きいところでの枠組みの構造を伝えることで、

少しでも簡素にまとめることはできないものかと思うわけです。

 

手がかりとしては、内田樹さんのブログと、

武田鉄矢さんの「私塾・坂本竜馬」を参照してもらいたいです。

 

そういうものを踏まえつつ、相当に簡単に言ってみるならば、

原子や細胞の数が多いほど、行動の誤差が少なくなるし、

ある意味では、同調する割合も大きくなってくるというもので、

仲間や恋人など、一緒にいる時間が多いほど、

気が合うとか、息が合うとかのそういう話になります。

 

武道やスポーツの合宿や、寮での共同生活などもそうで、

同じ時間や空間を長いこと共にすることで、

次第にあなたと私の境界が薄れ、同じような感覚になって、

意思疎通も図りやすいということで、

これが、大人の場合でいうところの、

一緒にお酒やご飯を共にすることが多くなるのと、

根底の部分では繋がっている発想かと思います。

 

お互いの気の合うことを"息が合う"ということもあり、

吸っては吐いての呼吸にもそういう効果があって、

全員で呼吸を合わせるようにしてみるのも、

同じような効果を得ることができるわけです。

 

そうして、武道における"無敵"を考える時には、

全員を打ち負かすことで生き残るのは自分一人という、

まさに"敵がいない"ということではなくて、

そもそもが"敵となる人がいない"のが、

実際のところで、目指す境地になります。

 

そこでは、勝ち負けだけの勝負論ではなくて、

どれだけ自分の状態を高めるかということで、

相手の懐に飛び込むことであるとか、

他の人も多く巻き込むのかというところになってきます。

 

ここでいきなり舵を切るようにして戻ってみると、

"幸せなセックス"であるとか、

"心身ともに深いつながり"を持つ場合に、

あなたと私が溶け合うように同調しながらも、

官能をお互いに高めることができるのであれば、

彼我の境地に行くことすらも可能かなと思います。

 

相手に自分を明け渡すようなことでも、

ここに含まれるのかもしれません。

 

あとは、坂本龍馬で言えば、

残っている写真を見ても、非常に"なで肩"なんですが、

これは武道的な「居着き」がないことで、

無用な力みがなく、大いにリラックスしている状態で、

どういう状況に対しても、次の動作に移りやすい点で、

かなり理想の状態になっていることがわかります。

 

リラックスということでは、副交感神経が作用しており、

危機的状況になって、キュッと集中する時には、

もうひとつの交感神経が作用するので、

剣術も免許皆伝を収めている坂本龍馬としては、

いざという時の切り替えが巧みであろうと考えられるわけです。

 

逆に言えば、相手が居着いているような状態では、

こちらから見れば、生かすも殺すも自由であるような、

"活殺自在"の状態であるのですが、

もちろん、命を奪うようなことはしないで、

いかに生きることができるかを考えるのが、

今の状況では良いような気がします。

 

そして、こういう英雄は色を好む傾向もあって、

特に坂本竜馬では、妙齢の女性ということだけでなくて、

広く女性や子どもに親しまれていたことが記されています。

 

坂本龍馬は、非常に開明的なだけに、

いろいろな顔を持っているのですが、

そのひとつには、亀山社中海援隊と、

日本の株式会社の先駆けとも言われていますが、

こういう社長となるような人はセックスも上手だと、

何かの本だか記事だかで見かけたことがあります。

 

確かに、細かいところにも気配りができるし、

多くの人と会って、スマートが振る舞いができるとあって、

かなり的を射ている指摘ではないかなと思います。

 

 

そうして、坂本龍馬を例に挙げながら、

会社の経営とかリーダーシップを考えると、

多くの人の気持ちをひとつにして、

大きな目標に向かうことが望ましいわけです。

 

それが、薩長同盟という歴史的な偉業にもなるのですが、

幕府の側とも、脱藩をした土佐藩とも、

新撰組を含むような、ありとあらゆる人たちの中で、

お互いの立場も利害も異なりながらも、

その間を颯爽と駆け抜ける坂本龍馬は、

仲間からは慕われたり、新たに誰かと誰かをつないだりして、

大きな動きを見せているのは驚異的だなと思います。

 

これを、武道的"平方根"とか"居着き"とかと絡めると、

たとえば、会社のトップであるとか、

何かのグループの筆頭である場合に、

自分の思うように考えて、同じように動ける人が多い方が、

自分ひとりの何倍もの動きを見せることができます。

 

まるでそれは、脳みそが自分のものひとつでありながら、

多くの人が、自分のまさしく手足であるように動けば、

それだけでも巨大な運動体となることが考えられます。

 

指先にまで神経が行き渡っているかのように、

一緒に働く人たちとつながっているのかということです。

 

そのためには、ひとりひとりとの関わる度合いや深さはある、

しかも出会ってからどれだけ短い時間でできて、

どれだけ多くの人とできるのかということを成し遂げてこそ、

大きいことを成し遂げられるように思います。

 

このあたりが、いろいろな要素を含みながら成り立つもので、

簡潔にするにしても、伝えきれないような感覚はありますが、

自分の中では言葉にできていないだけでつかんでいるだけに、

あとは、それを実際の場面でできるのかというだけのことです。

 

 

武道とか、坂本龍馬を手がかりにして考えてると、

たとえば、西洋のスポーツでは、

勝ち負けだとか、優劣を図るような側面が大きく、

単純に言えば、腕力の強さがどれくらいであるのかが、

影響力や発言力みたいなのを決するように思います。

 

しかし、柔道、剣道、合気道など、

もちろん筋力や瞬発力みたいなのも必要ですが、

「道」が名前になっているように、

長く続けることや、続けることでわかる境地があるのが、

スポーツとは異なる大きな特徴かなと思います。

 

そこでは、人間的資質の涵養であったり、

いろいろな感覚的な能力の開花であったりするようなことを、

自分の身に起こすことが重視されているようにも思います。

 

誰かに勝つとか、打ち負かすということではなくて、

克つべきのは自分自身ということで、自分に負けない、

"克己"という言葉は、実に言い得て妙だなと思います。

 

 

会社経営のトップとか、各種リーダーとかの資質を思う時、

そこにも多くの要素や側面はあることでしょうが、

ありあまるようなエネルギーがあることが、

理屈を抜きにして、何よりも前提になるように思います。

 

それはまた、健康であるということにもつながりますが、

普段の生活において配慮するべきことは、

食事、運動、睡眠の3つをバランス良く成り立たせることに、

秘訣が詰まっているようになっているものです。

 

エネルギーの多寡はまた、魅力的であるかにも関わるので、

そういう人の元には、同じように魅力のある人が集まるのは、

こういうことからも言い表せられるように思います。

 

内面的な状態というのは、気持ちの浮き沈みや、

脳の働き、内臓の状態など多くを含むかと思いますが、

そういう内面で起こっていることは、

毛穴なのか、肌の表面からにじみ出るようなもので、

いくら外見を着飾って、取り繕ったところで、

どうしても看破されてしまうのではないでしょうか。

 

肌の滑らかな様子であったり、整っている様子を、

「肌理(きめ)細かい」というのは、

肌の表面にも、本質的な原理はあるというのが、

どこか関わってくるように思うものです。

 

 

心身にまつわる、この健康に関わる、

食事、運動、睡眠の3つの要素は、

そのまま三大欲求の充実にもなりそうで、

行為としてのセックスを行うにあたっても、

筋力トレーニングをして、日焼けをすれば、

かなり健康体になり、準備も万端ということになります。

 

男性では特にスクワットをすることで、

男性ホルモンが多く分泌されるということで、

女性にしても、足のラインをキレイに保つには、

特に太ももの内側の内転筋を意識すると良いとされています。

 

また、呼吸ということで考えても良いのですが、

特に男性では、"勃って、出す"プロセスが、

行為としてのセックスの過程にはあるわけで、

交感神経、副交感神経を行き来するのが自由であれば、

自分の肉体もそれに連動するようにして、

自由にコントロールすることができると考えられています。

 

わかりやすく言えば、行為としてのセックスの最中では、

勃起ラインと射精ラインの二つがあって、

興奮して勃起するのには交感神経が強く作用し、

逆に、射精ではリラックスする副交感神経が作用します。

 

こういう緊張と弛緩みたいなのは、

呼吸の仕方にもよるし、集中の仕方によっても、

かなりコントロールができるようです。

 

 

行為としてのセックスを考える時には、

肉体的なところでわかりやすいのは、

男性が"勃って、出す"ことになるのでしょうが、

女性の場合では、また異なる指標があるものです。

 

それでも、一回の行為がどのようにして成立するのかでは、

男性側に責任というか、主導権が渡されているようなもので、

単純に、挿入して射精すれば、ひとまずは良さそうです。

 

しかし、女性の側からしてみれば、

自分ではどうにもコントロールできないわけで、

男性次第になる部分が大きいあまり、

必ずしも自分の快感や満足が得られない場合もあります。

 

もしもこういうところに固執してしまうのであれば、

行為としてのセックスが、挿入や射精ありという、

挿入主義、射精主義でのセックスになってしまうそうです。

 

その場合では、行為としては成り立って入るけれど、

"幸せなセックス"をするとか、

"心身ともに深いつながり"を持つことからすると、

少し離れてしまう発想のように思います。

場合によっては、男性の気持ちや体調によって、

勃起が維持できないとか、射精にまで至らないとかあって、

それを女性が、自分の責任と思ってしまうようでは、

悲劇の上塗りになってしまうこともあるようです。

 

ここでまた、打開策というわけではないのですが、

ひとつ興味深いことを聞いたのですが、

必ずしも挿入する、射精することだけではなく、

もっと他の過程や行程を楽しむようにしてみれば、

逆説的ですが、行為としてのセックスが成り立つのでは、

そのように考えるのも良いのではないかということでした。

 

寄り添っているだけでも良さそうに思いますし、

肌の温もり、呼吸の息遣いなどの他のところで、

相手を感じることもできるのではないでしょうか。

 

そうすれば、いくら年齢を重ねたところでも、

あるいは、体調が優れていないような時にでも、

気持ちを行き交わすことができるように思います。

 

 

また、行為として行い、挿入するにしても、

相手との神経をつなぐようにして、

気持ちを集中させることによって、

肉体的なつながりを越えたところでの、

"つながる感覚"を得ることができるそうです。

 

日々、現場でも行っているしみけんさんの言うには、

「コンセントをプラグにつなぐ」イメージだそうです。

 

脳の中の動きも、突き詰めれば電波の信号ですから、

シナプスをつなぐようにするというのは、

体においてもあてはまる考えだなと思います。

 

 

この<その2>では、かなりいろいろなことを、

あちこちに飛び跳ねながら書き進めているように思うので、

進むために振り返るようにすることもしてみると、

また、発見や気づきがあるように思います。

 

あるいは、行為としてのセックスを考える時に、

結構スキルやテクニックに傾倒する場合が多いらしいですが、

相手と高まるとか、つながるような場合では、

気持ちの部分も大きいことを感じ取ってもらえたら、

そういうところでも気持ちの良さも味わえる気がします。

 

そして、恋愛でもそうかもしれませんが、

行為としてのセックスも、あなたと私のもので、

基本的には、個人同士の問題であるとすれば、

もしもお互いの意思が離れて、関係を解消するような時に、

果たして、どういうところが至らなかったみたいな、

フィードバックや反省する機会があるとは限りません。

 

時々、試験や判定があるようなものではないですから、

よほど自分で気をつけない限りは、わからないことでしょう。

 

行為としてのセックスもそうで、

これをしたからポイント何点みたいな競技式ではないので、

自分や相手が上手か下手かみたいなことも含め、

全体的な振る舞いの、良いところとそうでないところも、

そう正面を切って伝えることはできないものです。

 

ましてや、第三者から伝え聞くということもないし、

だからといって誰にでも相談できることができない点で、

恋愛やセックスというのはデリケートになるのかなと、

それでも、誰もが多かれ少なかれ抱え込んでいることで、

そウいう部分では共通しているのかなと思いました。

 

逆に、あとから答案用紙が返ってくるように、

相手からの手紙が届いたら、目をむいて驚くことでしょう。

 

 

この<その2>の最後の部分として、

武道的な発想での、もうひとつを取り上げておきますと、

時間や動作の分節を区切るようなことがあって、

時間は過去から現在を経て、未来へと連続するものですが、

それをあえて区切ってみることで、

動きの精度や内容が変わるというのがありました。

 

何か、運動をする時には、体の各部位を連動させ、

ひとつの動きが、次の動きになっているのですが、

これを「ボールを受け取って投げ返す」とひとつにしては、

どこを良くすれば、もっと速く、遠くへ投げられるのか、

受ける前の位置取り、受け取る構え、受けてからの体のひねり、

そして、投げて返すというように、

そういう検証ができないことに関係しています。

 

他には、歌を歌う時にもそうらしく、

音楽や歌のメロディーもひとつの大きな時間の流れですが、

それを音符や小節で区切ってみることで、

音程やテンポをどこかのタイミングで修正できるので、

実践的で理に適っている考え方になります。

 

ここでは、一本の線で考えるのではなく、

ひとつひとつの点の連続で考えているわけですね。

 

行為としてのセックスにしても、

同じ相手と前回が良かったから今回も良いはずだとか、

逆にそうでなかったとか、つい比較をしてしまうものですが、

一回一回を区切って、次に持ち込まないことが大切だそうです。

 

そして、これまたしみけんさんのコメントであったのですが、

1日3現場あったとしても、毎回が今日の1回目ととらえ、

それが結果として3回続くというように、

発想を変えることで、乗り切っているそうです。

 

もちろん、相手と自分の体調、天候、気温や湿度など、

そば打ちの職人が気をつけるようなことでもありますが、

多くの要素を含みながらベストを尽くすわけで、

それでも、これは考え方や気持ちの持ち方によって、

そこに体を連動させて影響を抑えることなので、

まさに"気の持ちよう"は重要だということを示しています。

 

 

<その3>に続く…。