名前の恣意性

 

DREAM THEATERのキーボード担当の"鍵盤の魔術師"ジョーダン・ルーデス(JORDAN RUDESS)は、本当の綴りでは「JORDAN RUDES」と最後の"S"はひとつだそうです。

しかし、この本名の綴りでは、「ルーデス」ではなく「ルーズ」に近い、「デ」と「ズ」をくっつけたような呼ばれ方をすることが多く、それで見た目からわかりやすいように"S"を重ねたということです。

日本語が英語で読まれる時にもに似たようなことはあって、「アスカ(ASUKA)」では真ん中の「ス」が強調され、「アスーカ」ということになります。

平坦に「アスカ」と呼んでもらうには、真ん中の"U"を省く必要があって、表記は「ASKA」となります。

この二つの場合では、表記の仕方と呼び方で少しズレが出るものでしたが、名前というものは固定的なものと思いきや、意外と融通が利くようなものかもしれません。

日本では、人の名前(人命)では使って良いかどうかの漢字の基準はありますが、それを何と読むのかはほとんど自由で、ひらがなやカタカナを組み合わせることもできます。

それを何と呼ぶのか、時代ごとの流行や人気もあるでしょうし、親や家族の強い思い入れもあるので、時に読むのに難しく感じる場合もあるものです。

たとえば「愛」では、「あい」が標準というか順当なところですが、「めぐみ」や「まなみ」でも良いですし、極端に言えば(名前にふさわしいかは別として)「まことにいとうつくし」みたいなものでも良いということになります。

それでも、それなりに長い期間をともにするわけですし、何度も呼んだり呼ばれたりするものですから、これは程度の問題ということはあって、大きく逸脱しない方が真っ当であるように思います。

本名においてもペンネームやニックネームなどで、本人の本質的な部分と結びついてくるのが名前の持つ力のようにも思うので、どのようなものでも多く示唆に富むような気もするものです。

そのひとつとしては、浅野いにおさん「ソラニン」の"ビリー"がそうで、彼を表すには四の五の言わず"ビリー"でしかないようなものかもしれません。

そういう浅野"いにお"さんにしてもそうで、これは保険証にある本人識別番号みたいなのが由来だそうで、手元にあったのがキッカケになっています。

こういうものを、ひとつひとつ取り上げていくと、ひとりひとりの固有のエピソードがありそうで、話の盛り上がるネタのひとつにはなるでしょう☆