誰をか喜ばせんとする

 

誰かが喜んでいる様子を見て、思わずこちらまで嬉しく思うようなことがあります。

スポーツの勝敗や仕事の成否みたいなところでは、味方か相手かでいささか事情は異なりますが、普段の生活においてはおおむね当てはまるでしょう。

もちろん、自分がひとつでも多く喜びを感じる機会が増えることは好ましいものですが、物事の順番としてはどうなのかをしっかり知っておく必要があります。

それは、「あなたの喜びが、私の喜び」であるように、自分の喜びを真っ先に得るというよりかは、誰かが喜びを感じるように振る舞うのが先決であると考えられます。

この場合では、自分の直に接する人であり、それは身近な人からはじまっていくもので、喜びそのものは巡り巡って自分のもとに訪れるものです。

先に"自分ではない誰か"というのは、感覚的にとらえにくい感じもありますが、逆に考えて見ると多少はわかりやすくなるかもしれません。

自分自身が独占して喜びを感じてばかりでは、一緒に喜んでくれる人もいないでしょうし、自分が喜んでいるのと同じようにして、周囲の人も喜びを感じているかは定かではないものです。

喜びは分かち合うようにして、しかし、複数の人たちがいればそれは取り分が減るのではなく、実際には人数の分だけ喜びが増していくとも考えられそうです。

また、自分の喜び具合にしても、飽くなき探究心と同じようなもので、喜びはするものの満足するのとは異なるでしょうし、どこまでいっても満たされない思いが生じてくるかもしれません。

それでも、誰かの喜びが満たされているのであれば、それはこちらにも伝わってくるでしょうし、「ありがとう」のような言葉でわかりやすく返ってくることもあるでしょう。

このあたりの理屈を肌で感じながら、そして、具体的な状況や場面において確かにそうだなと感じていくことで、きっと会得していくように思います。

そして、奮起するようにして日々心がけていくにしても、自分の状態をある程度は良い時状態にしておかないと、そこからの上積みというのは望めない気がします。

気持ちもそうですし、体調もどこか崩れているようでは、喜びを受けるだけの体勢になっていないとも言えるので、十分に味わえないはずです。

そのような意味では、一番手前のところで喜ばせるべきは、まずは自分自身なのかもしれません。

そこからスタート地点に立って、誰かのために世のために働きかけていくことで、喜びの渦中に飛び込んでいくのでしょう。

お互いに喜ばせ合っていく、そんな関係があちらこちらで生じていけば、きっと日々過ごすことがもっと楽しくなっていきます☆