物語の力<保存用>

 

本日は"魔暦20年4月19日"、私の生まれ出ずる日であって、それを奇貨として新たな物語を付与してみようと、大いに言祝ぎながらここに試みる次第。

福音は高らかに鳴り響くべきものであって、それは私のもとにも降り注いできても良いもので、さらには心より待ち望んでみても良いものであろう。

世の中には、映画や小説などの作品が無数と言って良いほどに多くあって、そして、時代を問わず広く親しまれているように、「物語」の持つ魅力は強大なものです。

身近なところでも、思うところや言いたいことの骨子を、ほんのひと言やふた言にして言い切ることがほとんどできないように、また、それらは数百~数千字足らずで語り尽くせるようなものでもなく、いくらかまとまった分量の、場合によっては長大に渡る「物語」によって、何かしらの"本懐"を伝えようとします。

そして、多くの場合、どうにも言い表せないようなことが、言い表していること以上に背後や裏側に控えているようにも思いますし、人それなりに生きているとあれば、時間の長さでもしかり、心の奥深くに大切にしまってあるものは、そう容易には口をついて出てこないものです。

時には、何かを語らないことによって、何かを語ろうとすることもあるでしょうし、きっと見えるばかりが本当のところでもなく、見えないところにも目を向けようとする、そういう想像の及ぼし方ができることも必要だなと思います。

必ずしも説明しきれない、そういう"もどかしさ"はすべて取り除くものではなく、そこはかとなく漂う情緒のように、あってしかるべしというところかもしれません。

奥歯の間にモノが挟まってしまったら、速やかに取りたいと思うものですが、その間は挟まっているから気にするようにもなるし、舌先でつついて何とかしようとも思うわけです。

あるいは、"事実は小説より奇なり"なのかもしれないけれども、一方では"小説もまた事実より奇なり"ということもあって、現実だろうが虚構だろうが、自分が知っている(と思っているような)ことは、知らないことに比べて随分と少ないことに気がつくものです。

そこでは、何が本当のところかを知ろうとする態度が採られるかもしれないし、ドキュメントやロードムービーのように、日々の活動を月単位や年単位で通じながら、語らずして語るようなこともいくらかは可能になっていくように思います。

また、「文体」が自分の思いを乗せる"乗りもの"のように考えられる時に、その思いがどこに行き着くのかの最果てを知ってみたいものだし、自分自身においても今の思いを乗せる"存在"自体が果たしてどのようなところに行き着くのか、それを見届けたい思いがあります。

私個人としては、ひとつには音楽の、バンドやミュージシャンの活動を通じてそういった「物語」を感じることは多いものです。

たとえば、音楽におけるCDアルバムの制作及び発表、また、それをプロモート&フォローするライブ・コンサートやツアーを経て、時にはDVDや(最近では)Blu-Rayの映像作品にまとめることもして、活動の基本的な(あくまで基本的なところでの)サイクルが一巡します。

また、時と場合によっては、日本武道館や東京ドームのような大きな会場であったり、演奏する曲目や内容が特別なものであったりして、ライブ・コンサートそのものが活動におけるひとつのトピックとなることもあります。

それでも、各バンドや各ミュージシャンの活動を総括するようにして見る場合には、これまでにどのようなアルバム(あるいは、シングルやミニ・アルバムなど)を出してきたのか、ディスコグラフィーの一覧でもってどうにか知ろうとすることが多いように思います。

これまでに出たものしかり、次の新たなアルバム、さらに次のアルバムと、その時期ごとに出るアルバムがひとつの節目となっていくように、そこで各時期ごとの意味づけができたり、事後的にその時々がどういう時期であったのかを知ったりすることも多いものです。

バンドやミュージシャンの置かれている個別の状況やタイミングだけでなく、音楽シーンの範囲だけに留まらないところでの、その時期に付随する時代の雰囲気や社会の趨勢のようなものも、それぞれ同じようにして知るところです。

ハードロック/ヘビーメタルの世界においては、それぞれ"ひいきの"バンドやミュージシャンはいるとしても、それでもわかりやすいところでMETALLICAやIRON MAIDENが引き合いになることが多いため、メタルの世界に入門したばかり人にとっても、各アルバムの特徴や時期ごとの特徴を比較的容易に知ることができます。

また、もう少し間口を広く取って、"ロック"としてとらえる場合、上記のように大きな視点で活動を見ているバンドとして、LUNA SEAを挙げていくらかの言及をしておきたいと思います。

必ずしも多作ではない、それは言い換えればアルバム一枚ごと、楽曲の一曲ごとに全身全霊を注ぎ込んで製作にあたっているわけですが、アルバム一枚あたりに込められている「物語」もしかり、アルバムを前後する活動から見える「物語」もまた、こちら側に真に力強く迫ってくるほどに、かなり分厚いものを持っているように思います。

1990年代半ばから後半にかけての、『MOTHER』~『STYLE』~『SHINE』と続いていく時期の、バンド内外にほとばしる緊張感やテンションは桁外れに増していくように思います。

また、2007年の一夜限りの復活"GOD BLESS YOU~One Night Dejavu~"から再始動の"REBOOT"、そして今に続く活動とそれに呼応して出てくるアルバムについては、いくら言葉があっても分析も説明も追いつかないもののように思います。

それだけに依然として多くの人を魅了するのでしょうし、強く魅了された人は身も心も"SLAVE"と化するのでしょう。

音楽を楽しむということでは、楽曲単位であったり、ひとつひとつの歌詞やメロディーのフレーズであったりをそれぞれ楽しめばそれで構わないわけですが、もう少し広くとらえるという意味において、LUNA SEAはひとつの際立った例なのかもしれません。

その時々のインタビューやレポートを通じて、バンドの活動を現在進行形でこと細かに知っていくこともしながら、一方では、ある程度時間が経つのも待って、より包括的に知るようにするのも良いようにも思います。

一度は"終幕"を迎えたものの、その後の時間の経過があって、にわかに機運が高まって再び同じステージに立ち、さらに2010年からの本格的な活動になるとは、当事者であるメンバーを含め、2000年のあたりで想像できた人は果たしてどれくらいいたのでしょうか。

それでも、どれほどにドラマチックな事象であろうとも、実際には小さな出来事の積み重ねであるので、何かがそれほど急に起こることは滅多にないような気がします。

一見すれば偶然に見えるようなことであっても、そのひとつひとつが必然であるようにして寄り集まってくることで、当然のように物事は進んでいくものです。

年月においても同様で、長年にわたるひとりひとりの小さな"祈り"が集まってこそ、大きな岩をも動かす力が働いたとも言えるので、つい小さく見えてしまう(ような)ことも決しておろそかにすることはできないものです。

そのようにしてまたLUNA SEAとしての大きな「物語」は動き出し、25年以上のまとまりを持って、今もなお"続き"を描き出しているわけです。

LUNA SEAに限らず、意識的・能動的に音楽を楽しむようになって四半世紀以上が経つような自身をとらえてみれば、当然いろいろ見知ることはあるものです。

このように"時を恃む"ことで味わえる深さや奥行きもあるので、リアルタイムで追いかけるとともに、大きな視野に立つことのどちらもできた方が良いのではないか、ささやかながらそのように取り上げておきたいと思います。

ここで、自分にとって大きく影響を及ぼしているバンドやミュージシャンの、名前の多くを挙げることもやぶさかではありませんが、それを披歴すること自体にあまり意味はありません。

むしろ、これまでにどれくらい芳醇な(音楽を取り巻く)体験をしてきたかが重要なポイントになります。

最近の目立ったところでは、Hi-STANDARDのアルバム発表及び全国ツアー、HELLOWEEN特別版のPUMPKINS UNITEDに歓喜した人も多いことでしょう。

それは、ひとりひとりが思い出や記憶をかみ締めていれば良くて、何だかそれ以上でも以下でもないような気がします。

多くを語ろうとすれば、当然言葉を多く費やすでしょうし、費やしたところでどれだけ伝えることができるのか、それはまた別の問題になります。

話を元に戻してみると、見る側としてだけでなく、自分のことにおいてもおそらくそうですが、何事も最初から「何ヶ年計画」のように綿密に考案され、そのまま齟齬なく実行されることは相当に少ないように思います。

ある程度の、期間の長さを想定してやっていることはあるでしょうが、結局はその時々の状況に合わせて臨機応変に対応しながら、その時々でどれだけ充実した時間を過ごすことができているのか、あるいは、持てる力を十全に注ぎ込むことができているのか、ひたすらそれの積み重ねでしかないように思います。

そして、一歩一歩と地面を踏みしめるようにして進んでいき、いつか振り返ってみ見た時に、あくまで結果として、そこに何かしらの"道"が踏み固められていたということなのでしょう。

もしも最初から大きな「物語」を織り成したいと思ったとしても、果たして最終的にはどこに行き着くかわからないでしょうし、途中での変更や修正は余儀なくされるはずです。

結局は、紙面に一文字ずつ綴っていくしかないように、逆説的に"今"の連続によってしかそれはかなわない、そのように言うこともできるかもしれません。

これまでも、そしてこれからのことにしても、その"今"を力強く精一杯打ち込んでいるようにしている場合では、そこから立ち上がってくる「物語」は、時間は経っているということでの時代の移り変わりは感じたとしても、必ずしも古さを感じるものではないように思います。

音楽におけるアルバムが、その時期ごとを切り取っている作品であるように、それがまた世に語り継がれるようなものであれば、時には"クラシック"と呼ばれるようにして、時間の長さを取り込んでさらなる魅力とすることができるものです。

活動が現在進行形で、なおも続いているようなバンドやミュージシャンにおいては、技術やパフォーマンスがより洗練されたり、より深い魅力を醸し出していったりするでしょうから、アルバムであり楽曲なりもまた呼応して、決して色褪せることはない"今"を絶えず感じさせながら更新していくと言えそうです。

アルバムや楽曲のタイトルに関して少し付け加えておくならば、意識してかしないでかの明確な線引きはできないものの、その時点ごとの事実認知的な言明であり、これから先々に対しての遂行的言明でもある場合が少なからずあります。

ここは言語学者のジョン・L・オースティンに詳しくあるようですが、コトの要諦としては、今がそうであることの状態や形態をそのまま言い表していて、それを確認しているものが事実認知的な言明になります。

一方、理想や目標を掲げて向かっていく姿勢や様子を言い表して、これからそうしていく前向きさを表しているのが遂行的言明ということで、時間を前後しながらもふさわしいタイトルになっていると感じるものがいくつかあります。

METALICCAの最初のアルバムが『KILL'EM ALL』というタイトルで、決して"ミナ殺し"ではないけれど、"ヤラれた=心を持っていかれた"ように、多くのファンの心を射抜き、膨大な数のファンを得ていくことを物語っているように見えるものです。

また、間近でセンセーショナルなところでは、X JAPANの"もうすぐ出るはずのアルバム"がいつ出てくるのか、タイトルはセルフタイトルの『X JAPAN』とも一部ではささやかれていますがが、それによってまた音楽シーンの衝撃的な景色を見ることになるでしょう。

この場合では、"X"の持つ可能性が読んで字のごとくの"開かれた未知性"であり、"JAPAN"が地政学的に日本の出自であることを表し、名実ともに"これぞX JAPANっ!"というものになっている可能性が高いどころか、そのはるかに高い期待すら越えてくる予感がします。

もしも正確さをもってこれを語ろうとするには、こちらの語ろうとする姿勢が整わないことには、そもそも語り出すことすらしないというエピソードもあるにはあります。

端的に言えば、人ひとりのことと言えど、少なくとも口に出して言えるくらいには干支が一周するくらいの年月(=約12年)は必要ですし、そこからようやく落ち着くと思えるくらいにはさらに数年はかかるものです。

自分の歩みと重ねてみれば、10代の終わりから、20代をそのまま通り過ぎ、30代の半ばになるまで、ずっと待ち続けたひとつの「物語」に対し、長く思いを持ち続けてきて良かったと言える自分がここにいます。

それについては、どこにあるのか、あってもきっとわからないでしょうが、時系列に従いながら少しずつ切り取っているものが別にあるので、こちらではあくまでほのめかす程度で終わることにしておきます。

少なくとも、私にとって"待つことのできる"基準として、ひとつは12年くらいであるということになります。

人は誰しも、どこから来てどこへ行くのかがわからないように、ひとつの命を生きているとは言え、ただひとつの道を行くだけに定まっているわけではありません。

次の一歩をどこに踏み出していくのか、今のここから新たに踏み出すことはしていくにしても、それは事前に決まっているわけではなく、ある意味では自分の意思に委ねられているわけです。

これまでの延長線上に続けていっても良いわけですし、別の方向に転換しても決めるのはあくまでも自分自身であって、誰の意向に添わなくても基本的には構わないということになります。

その歩みのひとつひとつを漫然としてではなく、極めて自覚的に置いていこうとする時、その決断自体の重さに逡巡するようなこともあるかもしれません。

場合によっては、どうにも歩を進めることができないような極めて心許ない気持ちになることもあるでしょう。

日頃から、何をどうしたら良いかわからないような時に、どうしたら良いかを知っていることができるようにしておくことも大切ですし、あるいは、そのような時には何をどうしようが好きなようにすれば良いと言い換えることもできる気がします。

想像の枠組みを押し広げる試みとしては、人生はあくまでも単線的なものではないし、単線的にできるほど単純なものではないということを知っておくのも、ひとつには良いと思います。

あちらに寄りこちらに寄りと、いろいろ行き当たりながら自分の進む「道」を次第に見出していくように、時に振り返って、過去の経験やこれまでの様子を確かに参考にするかもしれないけれど、これから先は別のレーンをいくようであっても構わないわけです。

れも、競技場のトラックの話だけに限ったような話でなく、道路でも舗装されていない野道でも、少しでも視野を広げてみれば選択肢は思っている以上に多くあるものです。

また、推理小説やミステリ作品と異なって、伏線を方々に複雑に張り巡らせたとしても、何か事件や問題を解決するわけでもないので、律儀に全部を回収しようとしなくても良いでしょう。

場合によっては、迂回するようにしてまた来た道に戻ることも、選択肢のひとつに数えて構わないと思います。

それでも「物語」としては"続いていく"ことに何ら変わりはなく、その時々で興味や関心を持って取り組んできたいくつかのことが、進んでいくうちに突如として"点と点が結びつく"のであれば、それはまた望外の嬉しさになる気がします。

このように、何が起こるのかわからないことを好意的にとらえるならば、これまでがどうであったかよりも、これからがどうあってほしいのか、自分の内なる声を聞くようにしてひたむきに進んでいく、ただそれだけで十分なのだと思います。

自分が今どこにいるのかを、時間や場所の地点として俯瞰的に知る(マッピング)することも必要なことでしょうが、進む道が変われば、当然これまでのことも意味づけは変化していくのだから、結局は敢然と進んでいってこそ、また何かがはじまっていくのでしょう。

そのような意味では、野球のバッターボックスに立たないことにはヒットを打つチャンスが訪れないように、自分の内側にそれなりの「決意」がないことには、もたらされる結果もまた望ましいものにはならない気がします。

私は、普段から見聞きしたものの多くを言葉に置き換えておくような習慣があって、それはひとつの癖でもあるのだけれど、その都度思ったことや考えたことも含めたあれこれを、基本的にはブログに書きつけるようにしています。

自分の視点や観点を明らかにするというのもありますが、「忘れないため」というのが大きい理由であるような気がして、長く続けていると結構な分量になってくるものです。

ほとんど振り返って目を通すようなことはしないけれど、内容としても記憶としても残っていることも決して少なくはなく、時として思い出すこともあります。

過去の資料(アーカイブ)のひとつとして有用ではあるけれど、時間の流れにおいて足枷になることも時としてあるのではないか、そのような考えが頭をもたげる場合もないわけではありません。

ある程度は参考にするとしても、これからの見立てや展望を考える時に「あの時はああだった、こうだった」となってしまえば、どうしてもそこに基づいていくために、ある意味では過去に引っ張られているとも言えるでしょう。

記憶と想像が"今の時点で"目の前にないことで共通し、脳内での働きにおいても似ていると考えるならば、この場合では、過去と未来との比重では過去の方に大きく傾いている状態であることは明らかです。

きっと、たくさん書き残しているけれど、振り返るように見るのではなく、吐き出したらそれで終わりと考えるようにして、いつの間にか置き忘れるくらいで良さそうです。

なぜならば、想像できない限りは実際にもそうなっていかないわけで、次に進むために頭の中を定期的に空っぽにするような作業ととらえ、気持ちの余裕や想像するための余白を随時確保していくことになります。

そこでは、過去の意味づけを変え得るような、意味の可塑性なんてそんなものまで気にする必要はなくて、ただ流れるままに任せるだけで良いのかもしれません。

大量のインプットもアウトプットも、息を吸って吐いての繰り返しのようなものですし、吐いた息の行方をわざわざ追うことをしないように、書き出したものに対してもやたら未練を抱く必要はなさそうです。

私の前を多くの人が通り過ぎていったように、私もまた誰かの前を通り過ぎていっただけなのかもしれない。

それでも、私は今、ここにいる。

長く思考をつなぎ合わせて、どうにか新たな物語を付与しようと試みてきたけれど、もしかすると付与すること自体が重要なのではなくて、付与しようと試みること自体がすでに良いことなのかもしれません。

何となく片づかない気持ちになるかもしれませんが、たとえば、電話の受話器を持ち上げてみたものの、誰にかけて何を話そうか、アイディアが輪郭を持って浮かんでこなくても、かけようとしていたこと自体が妥当な判断であり、適切な反応でもあったということなのでしょう。

たとえ思いあぐねていたとしても、それは物事にしっかり対峙している表れであって、決して目を逸らさなかったことの裏返しでもある気がします。

そして、実際のところでは、これまでに言ってきたことや行ってきたことのそれなりが、届く人には(いくらか)届いていたし、何らか実を結んでいたということで、決して少ないどころか大いに意味があったとも言えそうです。

求めてしまえばキリがないように、自分自身が「こういう人に会いたい」と考え、実際に出会うことを求めていくかもしれませんが、「あなた(のような人)に会いたかった」と、自分のことを求めていた人と出会えることは、きっと後者の方が"喜び"の度合いが大きいように思います。

自分の欲求を優先して満たしていくのではなく、誰かの満足に応えることが結果として自分も満たされることがどうやらコトの真理であるように思います。

そして、ここがわかるためには人としての陶冶や涵養が、相当に必要である気がします。

また、視野が狭まって、気持ちも萎縮してしまうとか、自分のことばかり考えてしまっていては、これまでのことが今に続いてい"ない"、これからのことが決まってい"ない"などと、「ない」ことばかりに目を向けてしまいがちになって、今「ある」ことの"ありがたみ"でさえも、十分に受け取れなくなってしまいます。

この世に命を授かり、誰もがその人なりの「お役目」を持っているとして、英語でいわゆる"天職"のことを(いささか話を簡単にしつつ)"CALLING"と言い表すように、それはあくまで"呼ばれる"ものと考えることができます。

自分で無我夢中にやっていることや、力むようにやるようなことが、自分の思うような力量や技量になっていないことも、また、思うような結果や成果になっていないこともあるかもしれません。

昨今言われる"やりがい"や"生きがい"みたいなものは、あくまで自分の主観の問題であるし、どこで満足するようなわかりやすい指標があるわけでもなく、きっとどこまでも手の届かない先にあるような気がします。

しかし、自分の普段から当たり前にやっているようなことであっても、誰かにとって大いに助けになっている場合、そこでのあなた自身の存在は"かけがえのない"ものになっていると言えるでしょう。

顔の構造として、自分の顔を自分の目で直接見ることができないように、自分の存在の際立ちや貴重さは他の人によって知らされるものです。

何が得意だとか、何が有利だとかにとらわれないことの方が、かえって物事は円滑に進むという場合が実際にはあるものです。

そのために、自分が今できることを精一杯やっておくことは、そういうことに気づくキッカケにもなるので、決して手を緩めるわけではないことを付記しておきます。

人は、誰しも時間的な存在であるとして、望みがあるかどうかとは別のところで、やはり前に進んで行く存在であると言えそうです。

それは、現実的な距離を前に行くことであるし、遡行のできない時間においても同様であって、とにかく"前に進むこと"のひとつの隠喩でもあるわけです。

そして、ここに別の切り口を重ねてみるとすれば、私自身の存在が、肉体的であるのか精神的であるのかで言えば、半々であるよりかは精神的な方が多くを占めているような気がします。

放っておけば精神的な存在に傾いてしまいがちな私にとって、時々は走ったり筋肉に刺激を与えたり、さらには、呼吸も組み合わせてみたりして、どうにかバランスを保っているようなところがあるかもしれません。

そして、多くのことに直面しながらも、どうにか前に進むでしかないではないかと自分を奮い立たせ、最終的には思いをまた新たにするわけです。

もしもこれまでの経験が、白銀色のスプーンにすくい取られた蜂蜜のように、すでに黄金色を放っているのだとしたら、今後はより輝きを増すようにしていくのか、または新たな経験を得るようにしていくかのいずれかで、そこに終始するような気がします。

つまり、これまで過ごしてきた日々が決して無駄ではなくて、今、ここに私がいること自体が素晴らしいのかもしれない、そのようにも受け取れるわけです。

それはまた、その時点で貴重なことに気がつくのであれば、実に"ありがたい"ということなのでしょう。

前述のように、何をどうしたら良いかわからないような時には、一方では何をどうしても良いように、必ずしも自分本位ではないところで、何をどう解釈しても構わない、そう言えるような気もします。

そうして見出された(すでにそこにあったような)素晴らしさが、これからはじまる日々を祝福し、より多くの期待に満ちるものであるようにエールを送っているのであれば、できることはただひとつ、それを大きく上回るように応えていくだけになります。

それもその通りのことで、今年は特に①たずきの道、②本を出す、③法悦の至りの3本立ての目標を掲げながら、究極的には「掬する人」でありたいと願う私は、きっともっと良くなっていきます。

それは、あるいは"sentinel"であり、"unsung hero"なのかもしれないけれど、これはまたの機会に取り上げたいものとして、とにかく私は私であることを選び続けたいと思います。

もう少し具体的には、向かうべき方向にカバン(=「浪漫飛行」のトランク)を置くべく、その方向を見定めることもするし、一方では野放図と言えるほどに自由に想像をふくらましてもいきます。

そんなことは"ありえない"と思うこと自体が"ありえない"わけで、それならむしろ"ありえない"くらいのスケールで夢や希望を描いても構わないでしょう。

やがて"ありえない"ほどに何かに行き着いたような時であっても、さらなる続きを見出して、きわめて愉快に日々を過ごしていきたいものです。

何事もすべて、"アーライッ(ALL RIGHT)"に導かれるままに、案ずるより産むがYASU SEA、ここまで読み通したあなたもまた、日々にとびきり良きものが訪れますよう、心より願っております☆