境界線上をなぞるように

 

物事の多くは地続きだとしても、

果たして、そのまさに境目であるようなところは、

指でなぞるように、見つけることができるのか、

そのような思いに駆られることがあります。

 

最も身近な、自分たち自身のことで言えば、

身体の境界をどこに置くかによって、

その人の考え方がどこにあるのかも探れそうですし、

物事の成り立ちにも思いを馳せることができそうです。

 

個体として、自分の身体をとらえる時に、

他の人からは完全に切り離されているので、

意思も行動も、自分の好きなようにすれば良いかもしれません。

 

あるいは、生きるも死ぬも自分の責任において、

何をどうしようが構わないということにもなりそうです。

 

しかし、特に人間的存在において考えるならば、

人が多くの人と関わりながら生きるという意味では、

社会的な存在であるとも言えるわけで、

好きなことを好きなようにするのは、

極論して、本能の赴くままになるので、

あまり好まれないことであるかもしれません。

 

そういう、他の人がどう思うのかも勘案してみると、

物理的なところと心理的なところの、

その両方から判定することが必要かなと思います。

 

たとえば、誰かと握手をするとかハグをするとかの場合、

身体的な接触がわかりやすい指標となっていますが、

しかも、心理的な結びつきも並行してあるとなれば、

どちらがより優先されるというような話ではなく、

互いに他を影響するようにして、成り立つということになります。

 

そういう点では、誰かが介在しているから、

存在としても成り立つし、存在が認められるというのはあって、

自分ひとりがいるだけでは「いる」ことはわからないものです。

 

自分自身のそもそもの成り立ちとしても、

両親や家族がいて、そうした人たちの関わりから、

順繰りのようにして、生まれ出ているわけであって、

連綿と続く"つながり"を感じぜずにはいられないことでしょう。

 

時に、全国を駆け巡る自動車の群れを、

血液の流れとたとえることがあるように、

大きく考えれば、自分自身だって細胞のひとつのようなもの、

せっかくであれば、日本なり世界なりの一部ではあるけれど、

"つながり"の一部となった方が喜びは大きいかもしれません。

 

このあたりを掘り下げていくとまた楽しいものですが、

いくつもの視点・観点からたどっていくこともできるので、

わかりやすさにおいては、いささか至難の業かもしれません☆