本質的な姿勢を崩さず

 

口を開けば、"理屈っぽい"と言われ、

きちんと説明をしようとしているのにも関わらず、

そういう印象だとは、なかなか心外なところです。

 

会話をしているのに、上辺だけをなぞっても仕方がないですし、

そう言われてしまえば、心のドアが閉まりつつあります。

 

逆に問うてみれば、直感や感覚なのだということですが、

言葉で何かを考えることはなく、まさに感覚でしかなさそうです。

 

どのような直感的・感情的な事柄でも、

論理や理屈とは不可分なものであり、

互いを補完するようなものである気がします。

 

また、このような論理や理屈は、先人の知恵でもあるので、

それを軽視することは、人類の叡智を蔑むような気がして、

そのように言う人に対しては、自分は相容れなさを感じてしまいます。

 

もう少し言うと、言葉の力を信じていないとでもいうようなことで、

こちらとしては、もう何も言うことがないなと思うわけです。

 

考えるところと感じることはそれぞれ大切なことではありますが、

ひたすらに、直感や感情に任せるという人は、

その人自身の過去の経験や感情についても考えることはなく、

それでは、何があっても何も学ばないということで、

これから一体何を得ようというのだろうと不思議に思います。

 

自分自身については、どちらの大切も信じていますし、

「情理を尽くす」姿勢が、自分自身の中心に据えている限り、

これは絶やさずやっていくことのひとつであることは確かです。

 

また、自分自身の精神構造として重層的になっているのはあって、

お互いに、踏み込んだり、踏み込まれたりしない限り、

次の一面は、容易には出てこないというのを自覚しています。

 

自分自身が、"理屈っぽい"のかどうかはあなた次第、

もしも、そこしか知ることができないのでは、

こちらの本質にはたどり着けていないわけですし、

こちらも心の開示をしていないことなのですが、

それを説明もしないので、知る由もないわけです。

 

だいたい、何もないような雰囲気を漂わせながら、

内心は結構突拍子もないことを考えているわけですが、

こういうのも易々と披露する由もないわけですね。

 

一度目よりも二度目と、面白さが増していくように、

そういう魅力を兼ね備えてもいきたいわけです☆