考える葦である

 

人の多く行き交う様子を眺めていると、それぞれの歩き方からわかることは多いような気がしてきます。

しっかりしている人は足取りもしっかりしているし、うっかりしている人はやはりうっかりしている足取りになっているように思います。

靴のサイズが適切かどうかもありますし、ヒールの高さと歩きやすさのどちらを優先しているか、足元を見ることは興味深いものです。

"歩く"という行為自体は、左右の足を交互に前へ踏み出して、それで行きたい方に向かっていくわけで、だいたいの人は生後1年かそこらあたりで歩きはじめ、何らか歩き続けているわけです。

それは、意識せずとも呼吸をしているようなものかもしれなくて、自分の歩き方が果たして良いものかどうかなんて、振り返ることはあまりないことでしょう。

それだけに、普段からその人がどう振る舞っているかの大半が、歩き方にも反映されているように思います。

どういう傾向や特徴を持っているのか、人それぞれに導き出されるとして、それが長年続くようであれば、逆にその人の思考や行動全般における"振る舞い"を規定しているようにも見えてくるものです。

靴底の減りやヒールの傾きを想像するとわかりやすいのですが、偏って力が加わればそこが消耗していき、しかし、その力の加わり方に変わりはないので、さらに同じように減っていくことになります。

そうなると、内股の人はより内股に、ガニ股の人はさらにガニ股になっていきます。

あるいは、O脚・X脚の類もこういうことでより助長されてしまいます。

いつのタイミングかで気がつき、修正するようであれば良いのですが、そのままにしていくことで骨格がゆがみ、カラダ全体のバランスも崩れてしまうでしょう。

カラダのゆがみはまた、精神的なものにも影響してきて、頭痛が続きイライラするとか、歯のかみ合わせが悪くて、ゴハンを食べるのに支障が出るとか、実際には歩き方からつながっていくものです。

特に高齢になってきて足腰が弱り、思うように歩けなくなると、途端に老け込むとか、気持ちやカラダが萎えるようなことが多いものです。

それだけ、歩くということが思っている以上に大切なものであり、生命の維持そのものに関わっているとすれば、今のうちから良い歩き方を覚え、キビキビと地面を蹴っていきたいものです。

どんな過酷な運動やトレーニングをせずとも、歩くそれ自体を楽しむことでもたらされるものは大きいなと思うのです☆