見た目と中身

 

少し込み入った話をわかりやすく伝えるとか、要点をしっかり伝えるように、こちらで伝え方を工夫することは必要だなと思います。

ただ、自分の中では、しっかり裏付けを取ることや何度も吟味することも大切ですし、言わないまでも複雑な理路を通っても良いかもしれません。

そういうことなしに、何でも話を簡単にしようとする人や風潮がある場合、どうも相容れないなと思ってしまうものです。

何か対象を見つめる時に、自分は横から見るとかどうしても斜に構えてしまうとか、あるいは、いくつかの視点を同時に持ち合わせているとか、自分で自分の考える傾向やクセを知っておくに越したことはありません。

いろいろと処理していかなければいけないことの多い普段ではありますが、どれもこれもスピードばかりを重視するのは、ややもすると迂闊なことになってしまいます。

どちらに偏ることもなく、結局はバランスの問題であるように思いますが、拙速が求められることもあれば、巧遅であることが功を奏することもあるので、その使い分けができることが好ましく思います。

自分自身は、どちらかというとしっかり考える方を好むので、話を手短に飛び進めるような「要するに」とか「簡単に言えば」というのをあまり使わない気がします。

絵の具のチューブから出したままを使うのは容易ですが、他の色を混ぜて味わいが増すように工夫するように、決してお仕着せのままでなく一旦は自分というフィルター(この場合では"感覚")を通すことが良いのかと思います。

漆塗り職人の、効率を求めるのであれば一回塗ればそれで良いのかもしれませんが、何度も重ね塗ることで得も言われぬ奥行きが出てくるのかもしれません。

少なくとも気迫や気概というものが塗り込められるように思うものです。

知識や知恵においても同様で、奥行きや広がりは相当に深遠であると思っているので、そういうものを知らずにいるというのは惜しい気がします。

それも、個人の好みであるので押し付けるようなことはしませんが、思考や感情の可能性としてアプローチできる手立ては十分にあるということはほのめかしておきたいところです。

自分なりに直面している日々のあれこれに対して、その都度しっかり考えるようにしておくと、その人の知的活動はきっと充実していくように思います☆