誰もが似たように

 

街の雑踏においてとか、都会の電車の中でとか、見知らぬ者同士が多く居合わせている場合に、近くに誰かしらがいるのにも関わらず、誰もが静かに黙しながら、同じようにしてケータイ(スマホ)を片手に「"何か"につながって」いる。

少し振り返ってみると、ケータイ(スマホ)の出はじめからだと30年くらい、多く普及してからも20年くらいが経とうとしているわけです。

今のこういう様子を見るに、どこでも電話やメールのできる便利さ以外に、果たしてこの機器や技術は現代に何をもたらしたのだろうかと思案してしまうものです。

首の角度がカクンと折れ曲がっている人や、いつか前転するのではと思うくらいの前屈みの姿勢の人がいて、今でなくても目や肩、首に大きな支障が出てくるのではと心配もしてしまいます。

それをわかっていてやっているのなら、それなりの覚悟というものがあるでしょうが、何も知らずにして、それでいて何か問題が起きることを好まないのであれば、どうにか早めに気づくと良いなと思うものです。

それにしても、もちろん何かをいつも見ることができる、いつでも何かを調べることができることにおいて恩恵も受けているものですが、絶えずそれをしなければいけないわけでもないので、そっと脇に置いておく時間も大切にしていきたいものです。

各々、自分にあった使い方・付き合い方でもってケータイ(スマホ)を所持しているものの、自分の好きなものに傾倒しすぎて、たとえば次の選挙の投票日を知らないままでいるとしたら、それは少し考え直した方が良いのではと思ってしまいます。

上手にボタンやタッチ操作をしたところで、自分のできることや知っていることは、あくまで一部であるとか、自分のやっていること以外の使いようがあると思いを巡らせられると良さそうです。

便利さの裏側には不便さがあるのみにあらず、集中力とか我慢強さみたいな、そういうものをどこか軽く見てしまっているかもしれません。

何となく落ち着かない、何となくケータイ(スマホ)を見てしまうのは、それは依存していることにもつながるので、それは文明の利器を使っているのではなく、使われていることになるでしょう。

それは、自分の時間を奪われているということでもあるので、時間や労力を何に費やしているのかに自覚しながら、また、何に"つながっ"ているのが良いのかを随時考えていきたいものです☆