これは、物事をどちらか見るかという話で、
たとえば、鍵と鍵穴において、言及することができます。
鍵から見ると、鍵穴の方に差し込む、
その時、鍵穴にとっては、鍵が差し込まれます。
これをひっくり返して見てみると、
鍵穴が、鍵を飲み込むのであれば、
鍵にとっては、鍵穴に飲み込まれるわけです。
する/されるの相関関係、その見方によって、
随分と印象や様子が異なるのだなと思います。
これは、どちらの見方が良いかどうということではなくて、
単に、物事は表裏一体であるということに尽きそうです。
あの有名な、壺にも見え、向かい合う人にも見える絵があって、
正式名称は「ルビンの壺」というらしいのですが、
どう見るかで、どう見えるかが異なるのは興味深いなと思います。
もしも、主観や客観ということで言えば、
多くの人のほとんどの場合かもしれませんが、
自分の側から見てどうなのかということに終始しそうです。
自ら行う能動なのか、受けに回る受動なのか
自分の側から見ても、それらは行ったり来たりして、
決して、どちらかに一貫してい続けるのも難しいものです。
ただ、こういうことができると、
視点や感覚によって、降り立つ地点が異なるのだから、
もしも、話す、行うのが、それが自分でないとしても、
思いや意図を汲み取るのが、容易にもなるのかもしれません。
ここまで綴ればもう十分という気もしますが、
自分自身の好みの思考としては、常に「対」になるものを思い浮かべ、
その両者の関係を思うことで、その真ん中にでもあるような、
何か大切なものを見出そうとしているのはあります。
自分が十全な人間であるととらえれば、満足もしやすいですが、
これが、男女というような区分で言い分けられるのであれば、
自分は四肢が揃っていようとも、所詮は半分であるということになり、
今のままでは物足りないのだなと、少し複雑な気持ちにもなります。
鍵と鍵穴では、互いに形状が異なり、
それぞれの役割もあるわけですが、
両者がそろってこそ、その機能を果たす、
切っても切り離せない関係にあります。
こういう、お互いがお互いにいなければ成り立たない、
その貴重さを思うと、得も言われぬ感動を覚えるものです。
このように、2つ揃って成り立つというのは、
人においても、相方やパートナーにも当てはめられるわけですが、
詳しい話は、またの機会といたしましょう☆