間が持てない

 

最初に「間が持てない」についてですが、普段はつい「間が持たない」と言ってしまっています。

本来的には、「ひと続きの時間」が「間」で、それが途切れてしまため、「持つことができない=持てない」ということらしく、なるほど今まで思っていたのとは異なるのだなということです。

今回言いたいことは、どちらかというと誤用にあたる「空いた時間があって、何をしたら良いかわからず、保つことができない」ということについてです。

外を出歩いていて、信号待ちやバスに乗っている時間、または歩いている時でさえ、ケータイ電話(スマホ)を操作している人を多く見かけます。

レジに並んでいたり、誰かと一緒にいたりする時でもいて、そういう人たちを見ていると、どうも少しの時間的な間隔が空くことに抵抗があるのかなと思ってしまいます。

それは単純に、長い時間の無聊を慰めるようなことではなく、数十秒から1〜2分くらいでも我慢できず、何かしらのメールやお知らせがないかを見てしまっているということです。

または、何もしないことに耐えられないとでもいうように、いつも何かを見聞きしていないと不安になってしまうということなのかもしれません。

何をするということもなく、手には取ってみたものの信号が変わるものの、それに気づいて、カバンやポケットにしまって、それで歩き出すといった具合に、3テンポくらい遅れてしまっているのを見ると、何をしたいんだろうと訝しく思ってしまいます。

何をすることもなく待っているとか、周りの風景や様子を見るとかするのも良いのではと思いながら、個人的には、そういう人たちとは関わりを持ちたくないから、距離を置く、つまりは間を空けるわけです。

何もないのが無駄ではない、そういうことも伝わると良いように思います。

また、こういうことを道徳的とか倫理的に言っておきたい気持ちもありますが、もう少し角度を変えて、武道的に背中が圧倒的に無防備であるということに懸念を覚えることがあります。

それは、周囲の気配に目を配るということでもありますし、たとえ見えないところでも敏感になっておくのが、予期せぬ危険に対してどうにか反応できるというわけです。

このあたりのことがわかると、もう少しいろいろなことに気づけると思うので、自分自身はひとつひとつを悠然と片付けていきたいと思う次第です☆