肩書きを持つ<保存用>

 

いつもありがとうございます。

この先どうなるものか、どうにも見通しの立たない今日この頃ですが、いわゆる"魔暦"では今年は22年を数えます。

また、世間では新たな元号に移り変わって、今年は2年目になっています。

昨年の4月19日、ちょうど私自身の生まれ出ずる日ではまだ元号は移り変わっていなかったため、その両者を重ねて言及するのは今回が初めてということになります。

改めて申し上げれば、今回は新たな元号になって初めて迎える私の生まれ出ずる日ということであり、これはこれで極めて厳かに言祝いでいきたい次第です。

シンプルに一年が経つということもそうですし、こういう元号の移り変わる節目というのは大いなる変化のタイミングであり、居住まいを正すにはちょうど良い、そのように言うこともできそうです。

今年はまた、いつもならざる様子はあるものの、この日を無事に迎えられたことをありがたく思うものです。

まことにありがとうございます。

私自身、いつも何かを追いかけるようにして、それゆえに未だ何者にもなれていないようにも思いますが、別の見方をすれば、まだ見ぬ(大いなる)可能性の余白があるとも言えそうです。

そのひとつとして、作家のひすいこたろうさんの話を聞いていて、次のようなものがありました。

たとえば、アントニ・ガウディ作品のひとつ、サグラダ・ファミリア@スペインが絶えずカタチを変えるようにしてつくられ続けています。

それと同様に、日本においても日光東照宮@栃木でも同じような発想が盛り込まれています。

日光東照宮の陽明門の柱の中には、一本だけ逆の向きになっている逆柱(読み:さかばしら)があって、これは決して誤って逆さにしたものではありません。

「建物は完成とともに崩壊がはじまる」という伝承を受けて、ならば未完成であれば崩壊することもないという発想でもって、あえて完成の手前で仕上げているのです。

これを言い換えてみれば、完成に近づこうとしているエネルギーに満ち満ちているわけで、いわば"右肩上がりのエネルギー"をいつも保っていることになります。

ジェットコースターでもある地点まで昇りきったらあとは降りていくばかりですし、山の頂きを突き詰めたらあとは下りるしかないことに似ています。

天下を取るにしても、栄華を誇ればあとは遅かれ早かれ滅んでいくのが歴史の定めなり、繰り返しであるように、完成するというのはその時点でどこかに"脆さ"を抱えるということなのかもしれません。

もしかすると、達成した喜びに打ち震えているあまり、油断とか慢心とかの入り込む余地が生じてきてしまうようにも思います。

それはつまり、もしも何かにたどり着くのだとしても、すぐさま新たなる旅路を急ぐようにしなくては、やがてエネルギーは停滞・枯渇していくのでしょう。

事実、そのような裏腹さを抱えているのだとすれば、いつも道半ばであることを不安に思う必要はなく、むしろ好意的にとらえられるわけです。

何を憂うことなく、今後もまた自分なりの葛藤を続けていけば良いだけのことで、そのような葛藤を続けれらる境遇にあることをありがたく思うだけです。

逆転の発想でもって、未完成だから良い、そんな右肩上がりのエネルギーに焦点を当てて、ありありと意識してみるのは良いなと思います。

そんな"右肩上がりのエネルギー"を意識しながらも、自分自身は一体どうしたいんだろう?

確固たるものがあるようで意外とそうでもないから、ひたすら心の動くままに、思いつくままに試していけば良いだけというのはあります。

心が動き、思いも浮かぶ、そうやって動いている過程に喜びが多く溢れていくのだと思えば、葛藤すること自体、何の問題があろうかと思える気がします。

どこに最果て(=ラフテル?)があるのかわからないような、何かを達成しなければ得られないだけの喜びであるとすれば、葛藤は増すばかりかもしれません。

何かを目指すにしても、その目指して向かっていること自体が喜びであり、たどり着くこともまた喜びであれば、それはひとつの理想のカタチであると言えそうです。

そのように思えば、幸せとか喜びとは何かを達成したから得られるものばかりではなく、その途中で十分に感じることができるし、事実そうであると考えるのが良いと言えるでしょう。

お腹いっぱい食べて満足感を全身でもって味わうのも良いけれど、もうそれ以上食べられないし、身動きもできない苦しさも抱えてしまうように、それ以前に何を食べようかな、どれくらい食べようかなと思案しているのが楽しいということに似ている気がします。

思ってすぐにできるかはわからないけれど、葛藤すらも喜びに内包するように考えていけると良いなと思います。

また、いろいろ考えたり動いたりできるだけの余白があるということは、それだけ伸び代があるということかもしれません。

そのためには、今"ある"ことばかりではなく、今"ない"ことにも目を向ける必要があるように思います。。

力量とか実力とかが十分に及んでいないとしても、決して不足ということではなく、それが伸び代としての余白というわけです。

反動を力に変えるようなことで、"ない"から埋めることができる、"ない"から"ある"ようにしたいと努めるようになるはずです。

同時に、今までにたどってきた道のりを整理することで、むしろ余白そのものを増やし続けることも可能ではないか、そのようにも思うものです。

タンスやクローゼットの中を眺めまわして、着ない服やサイズの合わない服を手放すようなことで、その都度入れ替えていくこともしながら、入るスペースを増やしていくといった具合です。

頭の中や心の中が、余計なものでパンパンになっていたら、新たに何かをしようにもそれを受け止めるだけの度量がなくなってしまいます。

そのためには、今の時点での自分の物事のとらえ方や行動の仕方を改めるのが良くて、さらにさかのぼっていって、その元にある普段の自分の考える様式を見直していくのが良いでしょう。

源流としての考え方が変われば、川の流れに合うように自ずと物事のとらえ方や行動の仕方が変わっていくので、自分自身においても、今はまた改めて自分の持つ考え方の枠組みを見直していこうと取り組んでいる次第です。

もう少し具体的なところでも同じようなことはあって、自分の身の回りの持ち物で、一年以上使っていない場合、それはすっと手放して良いのかもしれません。

持っているから、あるいは、以前はよく使っていたからといって、今後はどうなのか、それは自分自身もあずかり知らぬところです。

得体の知れないものをいつまでも持っていても仕方がありませんし、文房具のように、気持ちを入れ替えるようにして一新するのも良いかもしれません。

これは、持ち物もそうですし、すでに知り合っている人や日頃顔を合わせている人でも同じようなことがあるように思います。

今までは定期的に会っていたり、連絡を取り合ったりしていても、何かの拍子でその流れが変わることは多くあるものです。

今までがそうだったから今後もそうでなければいけないわけでもない、それもまたひとつの流れに沿っていくだけのことです。

たとえば、クラス替えや進級・進学、転勤や配置換えに部署移動など、時間の流れるにしたがって何かをしていれば変化は当然のようにあるもので、それに逆らったり、抵抗したりするのも何だか不思議なことになってしまいます。

ある時期近くにいたからといって、今後も同じでなければいけないわけでもなく、たまたまある時点において交わることがあったというくらいものものでしょう。

このように、近づいたり寄り添ったり、あるいは、離れたりして、誰かとの関わりは個人においても複数においても色彩豊かにグラデーションを描いていくわけです。

今まではそうであったけれど今はそうでない、仮にそうなのだとしても、そんなこともありました、そういう日々に感謝を覚えますと言えるようであれば、それで十分であるように思います。

さらに言及すれば、誰かとの関わりでもそうであるように、これはまた、自分自身の習慣においても同じであるように思います。

健康に良いと思って何かを食べているとしても、それは他の何かに置き換えられるかもしれないし、食べなかったところで特に問題はないというようなことです。

納豆の代わりに山芋とか、牛乳の代わりに豆乳とか、そのまま続けるのも良いけれど、別のものになったところでも何の支障がないとなれば、それもまた良いと思えるはずです。

気合いを入れるために時にはラーメンだ、そういうことがあっても良いわけです。

通う場所や行く道だって変わっていくもので、電車やバスなどの交通手段も気分で使い分けるかもしれません。

こういうことは、時期によってもそうですし、自分の考え方や感じ方にもよるでしょうから、あまり気にしすぎないのが良さそうです。

季節の変わり目とか、自然の推移でよくあることですから、それはそういうものとしてとらえておくだけのことです。

自分自身のことでも、少しずつ変化していくのが当たり前のことですから、他の人のことをとやかく言うのはまったくもって野暮というものでしょう。

いろいろ柔軟に構えるのが良いと知りながら、それにもかかわらず知らず知らずのうちに固執してしまっていることもあるでしょう。

そんな時には、首をグルリと回し、カラダの凝りをほぐすようにして考え方自体を柔軟に構えるのが良さそうです。

このようにして、こうでなければいけない、全部が全部そういうことばかりでもないのに、いつの間にかそのように思ってしまうことは多いものです。

何かをするにしても、窮屈なものとか縛りつけるものがあるわけでもなく、もっと自由に思いを馳せて構わないでしょうし、その方が本来のありようなのかもしれません。

何かをしなくてはいけないというような、義務のことで考えるのではなく、もっと自発的な、どうしてもそうしたいのだという気持ちに従うようにしていきたいものです。

これをまた厳密にすると話が異なってくるので、やんわり今の自分の気持ちを問い質すくらいにして、少しずつそのあたりを探っていければ良いと思います。

それが何かはわからないものの、何か支えとなるようなものがあれば幸いなのかもしれませんが、そのようなものはあるのか定かではありません。

特定の誰かや、考え方やものの見方のところで影響を受けているのは多々ありますが、だからといって一字一句違わずに"完璧に"取り込むのも至難の業です。

これも、その時々に合った手立てを取るのが良いわけですから、随時見直して、随時更新していくのが良いなと思っています。

必ずしも新しいものが良いとも限りませんが、試してみないことにはわからないといった面があるのもまた事実です。

基本的には今までメートルで測っていたものの、どうもそれでは間に合わない、しかし、今の段階ではヤードとかインチでの測り方を知らないような心境です。

今までのモノサシの外側にあるもの、いわば自分にとっての新しい測り方を模索していきたいということです。

そういうことに関連してひとつ思うのは、意外なところに活路があるかもしれないということです。

合理的に考えて、多くの数字やグラフで表そうとしていても、それが上手に伝わらない場合、伝え方に工夫するしかありません。

熱があるとして、数字だけを見せられてもどれくらいの温度の高さなのかよくわからないとしても、サーモグラフィーで赤々となっていれば、そこは熱そうだと感覚的にはつかめるわけです。

この場合では、数字の羅列がただあるばかりではなく、それがどうであるかの伝え方に工夫があるのが良いということになります。

それを数字に加えて、言葉であるとか、色で示すとかやっていくうちに、ひとまとまりの説明が可能になっていきます。

そもそもこれは何のデータなのか、それが意味するところは何で、自分たちはどうしていけば良いのか、どうにかして順を追っていく必要があって、これは言い換えると「物語」ということになるような気がします。

わかりやすく筋道や理路を語るにふさわしい手立てとして「物語」があって、それは決して空想を語る夢物語ではないし、架空のものでもないということです。

いわば、補助線を引くようなことで、今までは不可解だった事象や図形に、理解や解明をうながすために必要になってくるようなことです。

また、語るということに注目してみれば、新たなものを提示するようなことで、今までの延長ではないところに新しくレールを敷くような行為なのかもしれません。

小難しく言えば、転轍点を打つようなことで、これまでとはまったく異なる領域に突入するわけです。

ここでいう「物語」とは、話の枠組みとか、考え方やとらえ方の基準のような、そういうものをわかりやすく提示するには適しているもののように思います。

おそらくは説得力を持たせる"思い込み"の強さが「物語」の担う役割で、それは今は確かに実現していないけれど、やがて現実のものとして表すためには、強烈なくらいの"思い込み"であるくらいが良いように思います。

山口周さんと水野学さんによる『世界観をつくる 「感性×知性」の仕事術』(朝日新聞出版)を読んでいて、この「物語」であるとか、「世界観」の持つ重要性などが多く取り上げられていました。

ひとつの顕著な例として、今から30年以上前の1988年、Apple社(当時はApple Computer社)が発表した「Knowledge Navigator」というショートフィルムでは、現在のインターネット環境が整った状況でパソコンやタブレットにあたるものを使っている様子が描かれています。

日本では、車載されていた携帯電話が、大きな肩掛け式の箱型の形状で、どうにか持ち運べるようになるかどうか、まだまだ固定電話が主流だったような時期に、こういう未来を思い描いていたということに驚きを禁じ得ません。

これはぜひご覧いただきたいのですが、いくら技術が著しく発達していっている当時で考えても、このような未来が実現できるかどうかは予測しようがなく、あくまで構想であったわけです。

当時の、「こうなると良いな」からはじまって、「是が非でもこうなるようにするぞ」といった意気込みが、今となっては当たり前の状況を生み出しているのは、この「物語」の持つ力なのかもしれません。

自分自身は、何を思って、日々を過ごしているのか、そして、何を目指しているのか、自分なりの「物語」を表していくのに有効なのは、そのひとつとして自分の"肩書きを持つ"というのがあります。

肩書きを、ひとつの役割として思えば、何をしていくのが良いのかが明らかになるし、同時に、行動を起こすきっかけにもなろうということです。

「ものしりペンギン博士」とか「初代・ひらめ筋インストラクター」のように、自分で目指すものを先駆けて名乗っても良いし、誰かの活動や取り組みに関わっていくのでもかなっていくことでしょう。

または、世界一の剣豪を目指すゾロが海賊王を目指すルフィと仲間になって、"麦わらの一味"として自分は戦闘員の役割をまっとうするようなことではないでしょうか。

この場合では、自分の「物語」も持って生きているし、同時に誰かの「物語」を共有しているとも言えるでしょう。

この肩書きの効果として自分の役割を自らわかっているだけでなく、誰かに説明する時にもわかりやすく伝えられるような気がします。

自分自身のことで言えば、最近何かしら肩書きのひとつを得ようとして、少し模索を続けています。

この経緯を、今はまだあえて言うほどでもないし、言わずにいるのもまた乙なものかなと思っています。

肩書きを持つこともしかり、その役割を果たすということもまた大切なことであるように思います。

また、自分自身が力んでどうこうするのではなく、誰かと連帯を図るということも含んでいるはずです。

これがひとつの手がかりとなるかはわかりませんが、今の自分にはまったく関わっていない領域がまだまだ多くあるわけです。

興味や関心の度合いもありますし、その時々での優先順位に従っていくというのもあるでしょう。

また、自分にとって喫緊かどうかだけでなく、世の中の流れを見るとどうやら乗り遅れないのが吉ということもあります。

こういうことも、自分でうんうんうなるようにして考えることもしながら、何かを得るようにして誰かの意見や情報を丁寧に見るということも大切かもしれません。

未知の領域に突入するのは、いくらかためらってしまうことでもあるけれど、むしろそういうものに飛び込んでいく方がなじむということもあるはずです。

良くも悪くも、今までの通りで続けないようにするためには、何か新しいこと、自分にとって見知らぬ何かを経験するのが良いわけです。

これもまたどうなっていくものか、自分の気持ちや置かれた状況などを鑑みながら、いくらかカタチを変えていくかもしれません。

そのようにして、より具体的に「物語」を思い描くとか、肩書きを持ちながら行動していくうちに、多くの人や物事に出会っていくことでしょう。

たとえその「物語」や肩書きがひと連なりのもの・ひとつのものだとしても、そこには多くの起伏があって内容は多岐に渡っていくはずです。

時にはみ出ることがあっても、ひとつに押し込めるようなことはしないで、それらすべてを盛り込みながら「起承転結」に役立てるようなことがあると良いなと思います。

はみ出てもそれも織り込み済み、そのまま順当に進んでもまた良し、起こることの多くをただ素直に受け止めるくらいで良いのかもしれません。

気がついたら色とりどりのエピソードに溢れていたとしても、それに一喜一憂するのではなく、あくまで結果的にそうであったくらいの感覚で良さそうです。

また、部分部分で仕上がっていくものはあるかもしれないけれど、最終的には、大きくひとつの自分だけの「物語」として仕上げていくのが理想とも言えるような気がします。

自分自身が生き切るために、「物語」の効用や"肩書きを持つ"利点を大いに活用するわけです。

人生はまだまだ続くわけですし、人生まだまだこれからだという意気込みを持って、大きな"ひとつなぎ"のものを思い描いているのが、まことにロマンがあって良いなと思う次第です。

ここまでで、言いたいことの多くを羅列してきましたが、そろそろ「まとめ」にかかっていこうと思っています。

「鶏頭となるも牛後となるなかれ」、これはたとえ小さな組織やチームであってもそれを率いるリーダーたれという意味合いの言い回しがあります。

これと対をなすようにして、小さな山の大将でいるばかりでは、世の中の広さを知らないようなこともあるので、百獣の王・ライオンの群れに混じるようにして、大きな組織やチームの一員として"もまれる"ことも大切ではないでしょうか。

どちらともその良いところを採って、自分自身をより高みに持っていけるように、交互に組み合わせていくのが良いように思います。

また、自分の価値を高めるためには稀少性を増すことが大切で、他の人と同じではないという差別化も必要になってきます。

このあたりは、藤原和博さんの『藤原和博の必ず食える1%の人になる方法』(東洋経済新報社)に詳しく展開されています。

これは、新宿や渋谷の雑踏のうちのひとりということでは、その他大勢に紛れてしまいますが、少人数のチームのうちのひとりということでは、自分の存在感が増してくるようなことです。

その中で、世界にひとりというのはよほど突き抜けなければいけませんが、地域にひとり、近所にひとりのような稀少性を持つだけでも十分だそうです。

こういうことを専門分野とか興味のある分野で意識していくと、その分野で100人いるうちのひとりとして突出することを目指しながら、同時にいくつかかけ合わせていくと、100人×100人×100人=100,000人にひとりという稀少性が現れるし、差別化も図れることになります。

わかりやすい例かどうかはわかりませんが、音楽バンドのIRON MAIDENのファンは世界中に相当多くいるわけですが、合わせてタイのカオマンガイをおいしくつくれるし、同時に日本野鳥の会にも積極的に参加しているとなれば、それは結構珍しいことになります。

音楽を聴くのが好きだとか、山登りをする、キャンプをするなど、ひとつひとつの趣味や取り組みをする人は多いでしょうが、それをかけ合わせている人はわりと少なくなっていくだろうし、きっと少ないだろうと思っていく感覚を持っていると良いでしょう。

具体的には、テレビのタレント活動をしていて、走るのも早い、しかも最近ではサッカーチームの監督になった武井壮さんのように、仕事や活動においても同じようなことが当てはまっているわけです。

あるいは、お笑い芸人で、ソロキャンプを愛好し、バンド活動するヒロシさんのような例もあります。

こういうことを「名を成す」ような切り口で考えていくと、知名度があるとか有名であることに憧れを持つ人が多い気がしますし、自分もそのひとりに当てはまります。

自分の意見に共感してもらえたり、応援してもえらえたりする人が増えるのは嬉しいので、ある程度の影響力を持ちたいというのはあります。

これをもっと突き詰めて考えていって、もっと自分の心躍ることの最たるものとしては、会いたい人に会えるようになりたいというのがあるかもしれません。

会食をするなり、何かのコラボレーションをするにしても、こちらから一方的に会いたいと言っても、相手からも会いたいと思ってもらわないことにはなかなか実現しにくいものです。

また、お互いが会うように段取りを取り成すような人にとっても、それなりに大きなメリットがない限り、力を貸そうとは思いにくいものです。

時間や機会には限りがあるものですから、そのためには何をしている人で、どういう人なのかというのが、あらかじめ一定のイメージで知れ渡っていることが重要です。

そういうことがあっての知名度なり有名であることなので、ただそれらがあるだけでは何も生じないわけです。

ひとまずは目の前の人を大切にする、目の前のことに専心する、そういう心構えが必要であるように思います。

自分自身の歩みを振り返って、その時々での歩みがあるために、自分の考え方はもちろん、やっていることや出会う人のそれぞれは、時期によって随時推移し、変化を遂げています。

歩みそのものの向きは自分の中で一貫しているとしても、これまでどのようにたどってきたのか、それなりに知り合っているように思う人に対しても、意外と知られていないような気もします。

これを丁寧に説明して、しっかり知ってもらうようにするのはいかがなものか、見る人にとってはそんなの別に知りたくないよと思うかもしれません。

誰かに知らせるかどうかは別に考えるとして、自分ひとりの手前のところではノートやメモにするなりして、大いなる棚卸しの意味も込めてやってみるのは良いように思います。

これまでにやってきたことや続けてきたことが、自分を形成する特徴のいくつかであるし、今後も多少異なるカタチになるかもしれないけれど、どうにか通用し得るかもしれないわけです。

つまり、自分の持っていたり、形作っていたりするものが、今後の"未来への架け橋"のようなものになるかもしれないし、むしろ、そのようにしておくのが良いかもしれません。

自分の強み=武器となるのが何なのか、どこかでどうなるかはわかりませんが、少なからず自分の中では整理できていると良いでしょう。

しかるべきタイミングで発揮できるよう、手入れを怠りなくしておくと、急にチャンスが訪れたとしても、決して乗り遅れることはないでしょう。

それに、今後どうしていこう、ああしていこうと思って動いていることを推し進めていくことが、これまでの歩みから続くようであれば、自ずと自分自身が何者かが明らかになっていくように思います。

このあたりは無理に振り返ることなく、ただ進んでいくことだけあれば良いのかもしれません。

この一連のくだりは、今の時点で思うことの断片の多く。

このような断片の数々が重なり合うようにして、そうやってこの新たな一年を紡いでいくのだと思えば、すでに何らかの手がかりがあるということも言えるわけです。

自分自身で明らかに読み解ければたやすいものの、速やかにそうはいかず。

ただ、これらを遂行的な予言のいくらかであるとすれば、思うことの多くや願うことの多くを、今のうちからある分だけ盛り込んでおくのが良さそうです。

今のこれからがどうなっていくものか、最も楽しむべきは私自身、それはしっかりと肝に銘じておこうと思います。

今後ともよろしくお願いいたします☆