ある程度を越えるように

 

自分の気持ちにしても、考えにしても、

ある程度の閾値を越えないことには、

言葉となって出てこないなというのはあります。

 

見切り発車と言いますか、勢いに任せるだけでなく、

コップに水が溜まって、溢れるようになってこそ、

表に出すのが良いように思っているのもあります。

 

部分を知って、すぐに全体を知るようなことはないですし、

自分の意見が、どれくらい正しいかどうかだって、

そんなに早く判断を下せるわけでもないので、

迂闊には言えないような気がします。

 

そこで時間を長くかけるばかりではありませんが、

ある程度の吟味は必要だとも思うし、

言ったことに対する一定の責任も生じるものです。

 

そのため、いくつかの意見や状況を知って、

そうして、コップに一滴ずつ溜まるようにして、

気持ちや考えを固めていくのが良いように思います。

 

そして、反応としては、脊髄反射的に早いような、

見事な間とタイミングで行えるのが良くて、

それは別の観点で、養っていくのが良さそうです。

 

弁が立つということと、信頼できるかということでは、

必ずしも一致することはないでしょうから、

言葉たくみに丸め込まれることのないようにしたいものです。

 

そうして、自分なりの思考のパターンができたり、

判断する時の選択肢のバリエーションができたりして、

その時々に応じるのかもしれませんが、

ある程度は一貫性を持って、外に表すことができそうです。

 

日頃から、自分で思う・考える習慣を持ち続け、

そうして広く深く他の人の言うことにも耳を傾けて、

その場しのぎにならないようにしておくことが大切です。

 

そういう心がけをしている人の言葉は、

聞く人にとっての信頼にもつながっていくでしょうから、

丁寧に取り組んでいくに越したものはないわけです。

 

言った言葉は、基本的には取り戻せないにしても、

その時々での訂正や修正を、適切にやっていくのであれば、

信頼とともに誠意も、同時に伝わるのではないでしょうか。

 

そういう意味では、心がこもっている言葉かどうかは、

聞く人には、案外簡単に見破られるかもしれず、

それだけ、言う前の段階が重要になってきそうです。

 

独創性に富んでいる必要は必ずしもなく、

届いて伝わるような、モノの伝え方ができるであれば、

そんな素晴らしいことはないなと思う今日この頃です☆