お互いに持ち寄る

 

恋愛においても、友情においても、誰かと親しく接するにあたっては、"お互いに持ち寄る"ことが大切かなと思います。

それは、決してどちらか一方からだけでなく、できるだけお互いに等しくなるように心がけることに似ています。

たとえば、一方的に好意を寄せたり、具体的な物品や行為を施したりするとしても、受ける側としてはあまり望んでいないとか、逆に図々しくなっているとかあるかもしれません。

「相思相愛」という言い方があるように、どちらが先でも上でもなく、ともに思い合うことが大切なのであって、それが成り立つから、続く段階としてさらに良い状態に持っていけるような気がします。

一旦、良い状態になれば、あなたがそう思うから私もそう思う、そして、嬉しいから上回るようにして返していこうとなって、それが繰り返し行われ、より賦活することになっていくものです。

別段説教くさくなるわけではなく、イメージとして思い浮かべやすいこととして、「人」という文字がお互いに支え合っているように、お互いに持ち寄ってくるその中央で均衡が取れるというように考える見方があります。

これが「入」では、同じように受け止めても良いですが、"入る"ところでどうなるものかは、ここでは言及が追いつかないように思います。

いずれにして、もしもそれがかなわない=「人」のようにならない場合、単に二人か複数人いるだけの「二」や「Ⅱ」とかになってしまいます。

それぞれに自立していることも大切でしょうが、その場合では、お互いの気持ちや言葉の行き交いはなく、見た目の通り何も起こらず、物事は平行線をたどることでしょう。

自分の身近にあってはどうなのか、ある一面においてはそれがかなっているようにもなってきましたが、より良くなっていくための余地は依然として多くあるものです。

基本的な性質や気質(ネイチャー)として、自分ひとりで考えるのが好きだったり、普段の考えを出すには0か100だったりすると、どうしても偏りがある気がします。

それらに対してわりと自覚的でいるために、だから、余計に自分で考えるとか、あるいは、表立ってはあまり考えを出さないようなことになってしまうのかなという気もします。

それでも、相手や相手のタイミングによっては、すんなり成り立つこともあるでしょうから、少なくとも何かしらを"持ち寄る"準備はしておくし、そこに不足のないようにはしておきたいものです。

こういうバランスの拮抗は、得も言われず興味深いことの一つだなと思います☆