どこに向かっているかわからないような時にでも、あるいは、自分のやっていることに何の意味があるのかわからないような時であっても、「黄金の道」を進んでいるとか、何か「本質」を目指しているとかの"確かさ・確信"があれば、たとえ今はそうでなくても構わないのではないかという気がします。
何かに向かうという意思、それは頂上は見えないし行き着かないけれど、そこを目指して山道を行くような境地とも言えるかもしれません。
傍目に見れば、とにかく(そこから動かない)壁に向かって押す力を加えていくような、決して手をついているだけでないようにして、それを続けていくしかないように思うものです。
体力をつけるでも、走り続けることでどこに行き着くかわからないけれど、とにかく足を前に出して走り続けないことにはどこにもたどり着けないし、どれくらいの距離を走り切ったから"これでおしまい"ということでもないのです。
昨今の風潮として、いかに目覚ましい成果や結果を上げるかに躍起になってしまいがちょですが、もちろんそれを重視する一方で、前向きに取り組むとか、改善を施しながら上達しているというような過程を見ることも大切であるように思います。
「ローマは一日にして成らず」とあるように、それが大きなことであるとか時間がかかるようなことであれば尚更、一足飛びにはいかないものですから、徒労に終わることもあるし、なかなか報われないことが多いかもしれませんが、それでも少しずつでもやらなくてはいけないことなのかもしれません。
また、やがて目覚ましい記録を打ち立てたり、長い距離を走り通したりしたところで、何の表彰も名誉も与えられないかもしれないけれど、その行ったこと自体の経験や感覚は自分の身体に刻まれているのだから、それはそれで構わないとも思いたいものです。
見た目にはさほど変わらなくても、技術か何かでその前後で変化していることは必ずあるはずですし、心構えや自信のところで得るものは相当に大きい気がします。
ある地点に行って戻ってきても、少なくとも時間においては刻一刻と流れているから、それだけでも決して前と同じということはないものです。
何となくの立ち位置、足の踏みしめる位置は変わっているはずだと思うのならば、何もやらないでいるよりかは、果敢にアタックしてみるということも大切なのではないでしょうか。
成否がどうこうであることとは別に、感覚的にはもちろんのこと、自分の身体でもって知ることはきっと多いはずなので、そこを大切に思っていきたいものです。
自分自身においては、思っていることが少しでもあるのならば、できるだけ言葉にしておくこと、それは、いついかなる場合でもやらなければいけないことのひとつであるように思います。
義務として課している面もあれば、情動に突き動かされてやっているだけの面もあって、そういう理由や背景は、いろいろあって良いとも言えるはずです。
そして、しばらく続けていくうちに、それがその人なりの「道」となっていくようにも思うので、何もやらないでいるよりやった方がうんと良いとなるわけです☆