そこにある傾向

 

直接ではないにせよ、ある傾向の人たちと関わっていると、自分の持っている発想や考えが合っているのかどうかがわからなくなることがあります。

自分のクセというか、性格・キャラクターのの傾向・特徴はあるにせよ、それにしてもいかがなものかと思うことがしばしばあるものです。

ビン・カン専用のゴミ箱にビニール袋の類や空いたコーヒーカップを突っ込む人、駅の階段の上り下りを一顧だにしない人など、あちらこちらで、それもそれなりの頻度で見かけるものです。

こういう人の理屈は、ゴミ箱はゴミ箱だとして、ゴミ箱であることには変わらないから捨てても構わないとか、階段のどこを通っても階段だというようなことなのでしょう。

これを正当化しようとはさらさら思いませんし、多くの人がやっている・考えていることが正解とも思わないものです。

ならば、昇降の、乗りたい方向にないエスカレーターの向きにもケチをつけるのでしょうか?

それもエスカレーターであるに関わらず、昇りに乗りたいのに降りるのしかないではないか、逆もまたしかり、それを通すならぜひともそうしてほしいものです。

どこまでいけば屁理屈なのかはあるでしょうが、数の論理だとか、"みんな"がやっているからというのを、基本的にそれはあまり道理に合っていることではない気がします。

時には隠れ蓑のように用いることもありますが、そこは十分に留保しないといけないところです。

こういうことの発想としては、その時は良いかもしれないとか、自分だけが良ければ構わないというのが根底にあるのかもしれません。

これを突き詰めていくと、個人において利益や得るものはあるかもしれませんが、もう少し大きな範囲では誰かがその穴埋めや尻拭いをしているものです。

道ばたにゴミがあれば拾う人もいるし、そうしましょうということを堅実に守っている人も静かにいるものです。

そして、こういう働きをしている人がいて、種々の秩序が保たれていることがあるので、そこに思い至らないというのは結構残念なことのように思いますし、自分においてはそういう人敬意を払っていきたいし、多く出会っていきたいと考えています。

一方で、相容れない人とはあまり関わらないようになっているもの、あまり憂うようなことではないというのが、世の中の成り立ちの不思議のひとつです。

自分なりのより良さを目指すし、それが本質的な良さに通じていれば嬉しいだけのこと、少しずつでも歩み寄っていきたいものです☆