それがそれであるゆえに

 

文化的に生きるということは、理知的に振る舞うことでもあって、

日頃から、意の向くまま気の向くままに生きるということは、

実際には、かなり難しいことなのかもしれません。

 

それでは周囲の人を振り回すことになりますし、

迷惑をかけてしまうことにもなりそうです。

 

その一方で、一見平静を装いつつも、脈打つ鼓動は確かにあるし、

よほどの冷血漢のコンコンチキでもない限り、

感情の機微は絶えず揺れていることかも思います。

 

こういうものをどれだけ出すかもそうですし、

場面や機会に応じたさじ加減も必要で、

頭のどこか片隅でいつも考えていることでしょう。

 

もしも自分の素直なままにいられるとか、

ぶつかれるような相手に対峙できるような時には、

さてどうなんでしょうかというのが、今回のお題です。

 

自分自身が生身の人間であるがゆえに、

自分自身の中に生々しい感情が渦巻いていますし、

生の感情をさらけ出すということに、

どこか抵抗を覚えているフシがあります。

 

それでも、何か言葉なのか態度なのかを出さないことには、

何も伝わらないということに、ひどく葛藤があります。

 

それはまた、ぶつけるようなことを控えているのかもしれません。

 

今の時分、どういうことを思ったり考えたりしているかは、

こうして言葉に置き換えることで、一定の把握はできますが、

その前後も含めて伝えることは文字数も時間も多く費やしてしまいます。

 

また、これまで影響を受けてきた事柄や事象についても、

結構取り出して提示することも可能ですが、

そのひとつひとつが深みと複雑さを兼ね備えているので、

その掛け合わせともなれば、混迷を極めるようにも思います。

 

それをもってしてわかってもらえるかどうかはまた別の側面で、

それを過度に期待するのも、相手への負担ともなります。

 

そうして、言わないからわからない、わからないから言わない、

何をも生み出さない繰り返しが、そのまま繰り返されるわけです。

 

不毛とまではいかないまでも、生産性はないわけで、

ひとり勝手に袋小路に陥り、頭を抱えるのです。

 

小難しいことは考えず、楽しければ笑う、

悲しければ涙するように、素直な反応があれば良いわけで、

それも含め、今の心がけのひとつとしては、

周囲の人に対し、"信用はするけれど期待はしない"という、

この姿勢を保っていますが、詳しくはまたの機会にでも☆