それは何を言わんとするのか

 

言葉は時代や使い方によって変わっていくもので、

決して間違いではないけれど、正しいわけでもないものがあって、

そのひとつに、「生き様」という言葉があります。

 

意味の内容としては、「生き方が見事である」とか、

「誇らしい生き方をしている」という意味合いがありますが、

元は、「死に様」としか言わない言葉でした。

 

しかも、「死に様」にしても、意味としては、

「見事な死に方だった」とか「生を全うした」というのではなく、

「無様(ぶざま)」とか「様ぁ見ろ(ざまあみろ)」という、

どこか屈辱さを含む意味だというのです。

 

これは、相手に向けていうものなのか、

自分のことを謙遜・卑下していうものなのかはわかりませんが、

本来は、進んで使うようなものではないのかもしれません。

 

その人がどう生きるのか、成果や業績みたいなものは、

わからないよりかは、わかった方が良いのかもしれませんが、

最初から開陳して、誇示することが目的ではないので、

突き詰めれば、どちらでも良いのかもしれません。

 

結構、今の時代はそうなのかもしれませんが、

確固たる証拠がないと、「ある」ことにしない傾向が多く、

自分の生き方や考え方などを、表立って出していないからといって、

どこにも「ない」ようにしてしまうように思います。

 

目に見え「ない」から、ないわけではないことも多いので、

目を凝らし、耳を澄ますことも必要ですが、

「ない」ものを感じようとする姿勢も大切なように思います。

 

特に、人の気持ちや考えのようなものはそうかもしれず、

話さ「ない」から「ない」のではなく、

うんと心の奥の方にある可能性だってあるものです。

 

自分自身の心の声に気がつくように、

誰かの(正直な)心の声にも思いを寄せることによって、

情緒的な関わりができるように思います。

 

どうも、科学偏重の傾向がある一方で、

そういう見えざるものを押し出すこともあって、

必要であることと出しどころとが齟齬があって、

妙な理屈だなと思うことも、時々あるものです。

 

さて、武士道にある言い方として、

「武士道とは、死ぬることと見つけたり」というものがあって、

死ぬことを思ってこそ、生きることを真剣に向き合うような意味合いで、

もちろん、死んでしまっては元も子もないわけなので、

今の、生きていることを充実させていくことが重要となります。

 

これも解釈の余地は、それなりに多くあるので、

決して誤らないところで、吟味していきたいものです☆