どれほどの妥当性か

 

普段自分の採っている考えや発想が、それほど奇異であるようには思わない。

当然、自分自身の特性やクセみたいなのがあって、伝えようとする時にはそのフィルターを通してはいるというのはあると思います。

それなりに自覚はしつつも、内容において参考にすべきところはあると思い、それでも届かないということはどういうことなのかを知りたくもなってきます。

何としてでも伝えるとは思わないものの、いくらかはすくい取ってもらえると良いような気がします。

これは、人それぞれのタイミングや興味の傾向もあるので、今わからないからダメだというものでもありません。

お腹を減らしている人に向かって、金銀財宝の話をしたところで興味を持ってもらいにくいでしょうし、ワインを好きな人に向かってカレーライスのスパイスの話をしてもあまり響かないというのもあるでしょう。

それでも、その人の傾向として、ついぞ知ろうとしないままに終わるということもあるかもしれません。

自分にとって大切にしていることや大いに感化されたい考えであり、それらを発している人たちを見ると、相通ずるところが浮き彫りになってきます。

そうなると、水と油が混ざらないようなほど相容れないわけではありませんが、それぞれ別の道を行く人たちが、一方ではいるのだなという感覚を得るものです。

もう少し具体的に言うには、実際がどうであるかというのとは別に、毎月給料をもらうサラリーマンの感覚か、自分の才能や技術でもって収入に変えていくかの発想による差異で、こういうものはジワジワと個人に根づいているものにも影響を与えるものです。

外から採った感覚や発想であっても、それが自分と一体化していくうちにいつの間にかはがれにくくなるということはあるでしょう。

当然似ている人であれば親しくなる可能性は高く、そうでない人とはそうなりにくいわけです。

"気の合わない"人がいてしかるべしですし、それでも、気の合う人、似た考えを持つ人とは十分に仲良くなれているのだから、それでありあまるほどに十分ではないかという気はするものです。

そこでは、どういう人たちと出会いたいかということにもつながるでしょうが、いつも本質とは何かを問いかけながらより良さを目指す自分でいたいものです☆