継続は力なりけれど

 

「継続は力なり」と言うけれど、何事も、単純に続けば良いというものでもない気がします。

同じことを愚直にやる必要があったり、愚直に続けるしかなかったり、そういう続けることでしか達成しないようなことは多くあるものです。

続けることで見えてくることやわかってくることも当然多くあるはずです。

それでも、額面通りにこの言葉を受け止めているようでは、時に危ういなと思うようなことも散見するわけです。

結構、これは人の集まりにおいて思うのですが、会社の創業期や何かの運動の立ち上げ期では、何か目標や目的を果たすためにメンバーが少しずつ集まってくるわけです。

そこで熱い思いをぶつけ合い、数々の試練に耐えていくうちに、人の集まりが強固になってきます。

人が集まるから何かがあるのではなく、何かを起こすために人が集まってくると、そのように言うこともできるでしょう。

あるいは、それが続くようにとばかり、内実が維持する方向に向かってしまっては、あとは衰微する一方のような気がします。

それが惰性であっては好ましくないもので、そこでは、人が集まること自体がかなっていれば良いのかもしれません。

しかし、物事は不思議なもので、そういうところには多く人が集まらないものです。

コマも回っているから安定するようなところがあるけれど、回り続けるためには新たに回すとか、より回るように力を加えないと、次第に回転が弱まってしまうものです。

時間がどんどん過ぎていき、決して戻ることがないように、あくまで進んでいくしか解決がないようにも思います。

そうしないと人の多くが引きつけられないという側面もあるでしょう。

その時々でやっていることや取り組んでいくことが多少なりとも変わろうとも、これは変わっていくしかないものですが、それでこそ活発さが生じてくるものです。

行動もそうですし、場所としてもずっと同じところにはいられないものですから、いつも動き続けるということが、実は根底ではずっと続いているというようなことになるのでしょう。

移動する距離が長いとか遠いとか、多く動き回っていることが活躍の度合いや必要とされている様子を測れるとする考えもあるくらいですから、そういう尺度を取り入れるのも良いのかもしれません。

このあたりの因果や前後を、巧みに入れ替えつつ、何を持って充実とするのかをいつも考えていきたいものです☆