一体それはどういうことか

 

たとえば、「それ、ほいちょいて」と言われた時に、何かを言っていることはわかるのだが、何を言っているのかがわからないということがあります。

その人にとっては、"ほいちょい"が書類の何かをコピーすることをいうのかもしれませんし、鉛筆を削っておいてということかもしれません。

そもそもが動詞なのかも定かではありませんし、そして、指示語である"それ"も、それだけでは、机の上にあるペンなのか資料なのかも、この情報だけではわかることは至難の業であると言わざるを得ないものです。

人それぞれに言葉の選び方(ワーディング:wording)があって、また、いくつか好みの言い方があるように思います。

地域や年代による、特徴的だか固有のだかの言い回しもあるでしょう。

しかし、誰かにそう思ってほしい、動いてほしいという場合に、自分だけがわかっている語法や語句を用いるのは、いかがなものかなと思うものです。

自分の言っていることが、同じように思ってもらえるように、自分自身を省みるということも大切なことのように思います。

"伝わってこそコミュニケーション"という考え方がひとつにはできるでしょうから、言葉は発しても届かないようでは、"はい、何でしょう?"と改めて問い質すことになるでしょう。

自分自身は、時間や機会が許す限り"情理を尽くす"ことをやろうと思っていますし、話し出すと矢継ぎ早に言いたいことが溢れてくるのはあります。

それも、とことん言おうとすれば、抽象的思弁に傾いていくのがあって、これは人によっては退屈だとか杳としてよくわからないということもあるので、ことさら開陳するものでもなく、自分の中でせっせと溜め込んでおくようなものなのかもしれません。

普段の生活では、「大根一本いくら!」、「あいよ、**円、領収書もお願い!」みたいな、数字で表すとか誤解を生む余地がない会話が多いですから、すぐに結論が出ないとか、じっくり考えることを苦手とすることも、一面ではあるのかもしれません。

こういうことをつらつら書き連ねていると、何か恨み言のようにも聞こえてしまうかもしれませんが、あまりそういうつもりはなく、せめて自分の思うことはできるだけ大量に文字に起こしていこうというくらいの気持ちがあるばかりです。

大量の書き物は、自分の中の積み重ねであるので、こういうもののが知られざるところで自分を下から支える土台みたいなものになりますし、思いつくこともまた決して尽きることはないでしょう。

今日も今日とて、とにかく何かを書くという、ただそれだけのことであるのです☆