自分自身は、生まれてからこの心と身体を持ち合わせて過ごしているわけですが、周りにいる人は場面ごとに入れ替わったり、移り変わったりしているものです。
もちろん、思い出とか記憶として残っていることはあるにせよ、ひとりひとりを思い浮かべていくと、一緒に過ごした時間よりも、一緒にいない時間の方がうんと長くなっていることが、現実的にはほとんどを占めることに思い至ります。
お互い、近くにいる人の今のことは多少知ることができても、それ以前はどうであったかとか、離れてからはどうなったかを知ることは少なく、あくまである時期のことに限られるという話です。
そう考えていくと、自分のやっていることや、いる場所が変わっていくために、何から何まで知っている人は、周りにはあまりいない気がします。
自分自身であっても、すべてをわかっているわけではないので、周りの人においても同様のことが言えるでしょう。
たとえば、途中で髪型が変わっていくように、長くしてみたり、パーマをあてたりしても良くて、短髪の人はずっとそうしなければいけないわけでもありません。
そこで、ずっと同じようにやっていっても良いでしょうし、変えたければ随時変えていくことはできるはずです。
それでも、一貫していることは、いささか大きな枠組みではあるでしょうが、今よりもっと向上するように努めるとか、日々をどれだけ愉快に過ごせるかを工夫するとか、そういう必ずしも目に見えないものであるかもしれません。
あとは、それをいかに保持していくのか、または、状況に合わせて柔軟に対応していけるのかということになっていくように思います。
生きている長い年月、山あり谷あり過ごしていくにせよ、状況もどんどん変わっていくもので、そこに左右されることも少なくありません。
できることは、目の前にあるトンネルを、せっせとシャベルで堀り進めていくようなことで、いつも周りを気にしてばかりではいられないものです。
ただ、そうやって一心不乱にやっていくことで、たとえ目に見える風体が変わったり、何をやっているかが変わったりしても、かえってその人らしさがにじみ出てくるように思います。
自分自身においても、時々は、どうしたものかと思案に暮れるとか、何をか一貫しているのかを見直すとかして、やっていることとの比較をするのも良さそうです☆