伝えることの懊悩

 

決して「伝えることを諦める」のではなく、十全に伝えようと思っても、伝わりきらない(であろう)ことはあるなと思います。

それは、こちらの言葉や修辞の不足によるものではなく、話す人と聞く人とのお互いに、何らか共通する体験なり、知識なりがないことには、"腑に落ちる"ようなことがない類なのかなと思います。

知識や知見として知っていることと、自らの身体や存在を通して体験していることでは、大きな差異や隔たりがあることは想像に難くないのでしょうか。

自分においても、そういう"伝えたいけれど、(きっと)伝わらないであろうこと"はあって、普段話す機会もそのつもりもないので、特に取り沙汰しないものです。

さらりとほのめかすことはするかもしれませんが、多少パーソナルなことであるし、そういう大切に扱いたい記憶や体験は、よほどのことでないと自分ですら全容はつかめないかもしれません。

他のことでも、リアルタイムで過ごしていることが、年数を経るごとに重要であるように思う気もしますが、それでも個人それぞれ、まさしく固有のものであるから、一把ひとからげにもできないものでもあるのでしょう。

そういうものは、自分の胸中に抱いて、そっと暖めておけば良いでしょうし、心の中のフォルダの奥の方とか、何段重ねかの下の方とかにしまっておけば良いだけのことです。

裏表はないけれど、二重底、三重底みたいな構造になってしまうのは、どうにも免れ得ないことのように思います。

何かの折には、噴出するようにして外に出すかもしれませんが、いかなる反応なのかはあにはからんや、いずれにしても予測はつきにくいものであるでしょう。

また、世の中の物事のどれくらいかは定かではありませんが、普段の会話では登場することのない/なさそうなことは、それ相応に多い気がします。

ビジネスにまつわるものとか、人間の涵養・人格陶冶については、会話の俎上にはのぼりにくい、しかし、必要かどうかでは多くの人に当てはまるものでしょう。

今後は、個人的な思いとしては、知らなくても特に困らないようなものでも、できるだけ多く、自分の中に溜め込んでいきたいなと思っています。

何かに役立てるためということではなくて、いつか役に立つこともあるだろうと、あるいは、種々の体験を含む知識や知見は自分の身に備えることができるのだから、やらないよりかはやった方が良いわけです。

言葉だけでどれだけ伝えることができるのか、その限界を押し広げる意味においても、何につけ書きつけていくというのは同様にして実践していきたいことのひとつです☆