何に動じることもなく

 

だいたい、物事の多くと対峙する時に、

自分の意のままになることは、多くはないものです。

 

特に、対人関係によるところになりそうですが、

同じ言語を話し、近い地域で暮らしていても、

ひとりひとりの感覚には、差異があるものだなと、

驚くというよりかは、しみじみと思うものです。

 

こちらの投げかけた言葉も届ききらない感じがしたり、

相手の言っていることが、どこか上滑りして聞こえたり、

会話による共鳴が、起こらないことがあるものだなと、

そういうことを強く思う機会が、実際にありました。

 

もしかしたら、共鳴できる人は案外少ないものなのか、

自分自身が、奇抜でないけれど独自の傾向があって、

それは重々わかるけれど、それにしてもどんなものかと、

首を傾げてしまうようなことだけに、余計そう思うのです。

 

自分自身のことを語らずに、相手のことにも耳を傾けない、

それでは、相互理解というコミュニケーションが図れるわけもなく、

それで良いと思っていること自体、危惧を覚える必要があるでしょう。

 

しかし、それをこちらから指摘することもないし、

おそらく、指摘をしても聞き届けはしないだろう、

そういう人は、これまでも改善する機会が提供されなかったのか、

絶好の機会を逃してきているというのは一理ありそうです。

 

なかなか指摘されるのは、こちらの素直さが試されるもので、

耳が痛むこともあるし、ほとんどがそうなのかもしれませんが、

指摘をしてくれる人の、親切な心をしかと斟酌して、

ありがたく、耳を傾けるのが大切なことになります。

 

これ、かなり自戒を込めています。

 

また、何にも動じない堂々とした感じと異なって、

自分の改善の余地に対し、何も感じないというのは罪な話で、

他のあらゆることに対してもそうなのかと勘ぐってしまいます。

 

薩摩の西郷隆盛のように、弱く打てばそれなりの、

強く打てばそれなりの響き方…、自分自身が最初にならなくても、

せめて打たれたら、それに見合うだけ響こうという心がけはあります。

 

また、相互に打ち合うようにして、共鳴していくうちに、

その共鳴が大きくなれば、周囲の人への波及も考えられるし、

そういう響くだけの状況は備えておきたい気持ちはあります。

 

そんな、十全に共鳴し合えるような人は一体誰なのか、

それを思って、日々の出会いを重ねていきたい今日この頃です☆