両の手でお互いに叩き合えば音が出るように、自分の差し出したものが、すぐなのか時間が経ってなのかはありますが、やがて返ってくるものです。
小難しいことを考えずとも、会って最初に「おはようございます」と言えば「おはようござます」となるように、そこで「カムチャッカ半島」、「ゴルゴンゾーラチーズ」みたいなことは言われないわけです。
受け取ったら返す、差し出せば戻ってくる、その行き来によって日々の営みがあるものと考えられます。
それが偏り過ぎても良くないし、まったく行き来がないというのもどこか理に反しているように思います。
ならば、少しでも良くあろう、活発であるようにと思うとして、自分は何を差し出せるのか、そういう発想を持つところからはじめていくのが良いなと思います。
優しい言葉、柔らかい笑み、もしもできるのであればいくらかの食べ物であったり、お金であったりするのかもしれません。
人によっての受け取り方はそれなりに異なるでしょうが、これが自分が受け取りたいものということで考えていくと、だいたい似たようなものになるものと思います。
感受性とか豊かな感情というものは、必ずしも目に見えるものでもないし、手で触って確かめられるようなものでもありません。
数量・数値としても測れるようなものではなくて、しっかりとらえようとするにしても後回しになってしまうような気がします。
今は、そういう明確な実態がないものは、あるけれど「ない」とみなされることも多く、軽んじて見られることも少なくはないものです。
ただ、こういうものを見ようとしない、あることすら知らないでいるというのは、モノの見方としては成熟はしていないのだなと思ってしまいます。
自分においても、大切なことの一端を知り得てきているかという段階で、日々の心がけが欠かせないわけです。
よりできるようになりたい、よりわかるようでもありたいと思うと同時に、こういうことに敬意を払うというのが礼儀でありマナーであるように思います。
これが「幸せ」であるかどうかにも関わるとも思うので、手を伸ばさないことにはつかめないし、向こうからもつかむ手が伸びてこないことに致し方ないでしょうから、やはりお互いの働きかけが必要だなと思う今日この頃です☆