"あなたにつけられた名前はあなたのもの、
だから、何度でも呼んであげてください"
それは、自分自身の名前を大切にするのと同様、
身近で親しい人の名前もそう思ってくださいと、
そんな願いのこもった一節を目にしたことがあります。
自分自身は、名字も下の名前も少しばかり珍しいので、
名前に対する思いは、結構強いのかもしれません。
そして、こういう自分の名前が何であるかというのは、
その人の性格や考え方、あるいは、運命・宿命のようなものまで、
何らか影響を与えているように思います。
まずは、名字では、両親の名前がどうというより、
祖先や家族という、もう少し大きいくくりで、
その一員であるという意味合いが強いもので、
社会的にどういう出自かを示すもののように思います。
わかりやすくたとえて言うのならば、
どこのチームに所属しているのかに近い発想かもしれず、
地域ごとのサッカー・チームを思い浮かべると良さそうです。
名字は、住んでいる地域や就いている仕事に由来していることも多く、
特徴が際立っているものも、なかにはあるなと感じるものです。
蓮華峰院のようなきらびやかな名前であったのなら、
人生自体、かなり華々しくなるような気がするものです。
逆に、佐藤さんや鈴木さんのような名字では、
日本の名字のトップを争うほどかなり多くの人数がいるために、
少しばかり人とは異なる、珍しい名字に憧れる人もいるようです。
そして、下の名前では、自分自身固有のものであって、
どこのチームの誰であると、個人を特定するものになるでしょう。
下の名前では、両親や家族の願いがまた強くなり、
それがそのまま反映することも多いのではないでしょうか。
思いが強いあまり、凝りすぎる傾向もあって、
「七音」で"ドレミ"とか、「月」で"ライト"では、
読み方自体、見当がつかないことになってしまいます。
そういう極端な場合はさておくとしても、
自分の名前を大切に、しかも、呼んでもらえると、
個人の存在ごとを認めてもらっているようにも思えて、
とても嬉しい気持ちになるものです。
自分自身、名字の印象が強いあまり、
なかなか下の名前にまで及ばないことがあって、
それはそれで構わないなという気持ちもあります。
ただ、半分冗談で主張しておきますと、
"LUNATIC YASU SEA"という言い方ができる点で、
自分自身は、今のこの名前を気に入っています☆