塩辛くとも味わう

 

自分自身の持っている感覚が正しいとか、王道を行くようなものであるとは言いませんが、それなりにまっとうな良識を持ち出してみると、随分と様子の異なるものが目に見えるものです。

人混みの中やまっすぐ歩くような場合にでも手元のスマホ(ケータイ)でゲームや映画・ドラマ鑑賞に勤しむだとか、駅前の歩く人が多いようであっても自転車で駆け抜けるだとか、自分はやらないなということがあります。

喫煙スペースの近くにいるのにスペースの外側にいるとか、商業施設の移動用階段に座り込むだとか、それってどうなのということばかりでは、まさに枚挙にいとまがないとはこのことなりという気がします。

そういう、自分が良ければそれで構わないとか、結構周りの人の迷惑になっていても知らぬ存ぜぬとか、容易には解せないことばかりです。

自分だっていつも品行方正ではないし、しっかりやっているようでも迷惑をかけているかもしれないのでそっと内省はしてみますが、それとはまた異なるものを感じます。

少しでも良くしよう、少しでもまともであろうとしている自分においては奇異に思うことだけであって、そういう別の感覚では意外と道理にかなっているのかもしれません。

自分の思う通りに動いていく、他の人がどう思うかまで配慮する必要はないといった、自分なりに貫くものがあるのであれば、ある種の潔さを感じるものです。

ただ、そういう、どちらかというと好ましくない方向を推し進めてまで得たいものは何か、達成したいものは何かはわからないし、わかっても果たしてどういうものか、その是非は問うべきだなと思います。

いろいろ個人の好みや考えはあって、足並みがまったく同一にそろうということはないわけですが、おおむね「これは良い」というものは共通してあるような気がします。

それに大きく逸れるものもあるだろうし、できれば"良き方向"に向かうのが健全であるように思います。

適度なズレは刺激となって作用するかもしれませんが、ズレてばかりではどうにも不快を感じるようになってしまいます。

それでも、このトチ狂ったような状況の中で、いかに愉快に生きていくのか、上手に荒波をかきわけていけば、自分なりの世界に到達することでしょう。

多くに巻き込まれるだけではいけないし、少数にまわって埋もれても仕方なし、溢れる「今、ここ」に知性を注ぎ込めるか、それが今の勝負どころかなと思うわけです☆