多いと少ない

 

度々思うことのひとつに、数の多さと意見の正しさは異なるのがあります。

必ずしも同じように思う人が多いから、その意見が真っ当であることにはつながらないということです。

確かに、多くの賛同を得ているということでの信憑性はあって、それは十分に信頼に足るものかなとも思うものです。

お国柄、右向け右のようになびいてしまうこともありますし、多くの人と同じというのは安心を得られる状態かなとも思います。

それでも、その意見の出どころや考える筋道を検証するくらいは、自分の目や耳で確かめるのが良いように思います。

このように、数の多さばかりで物事を測ってしまうと、もっと肝心なところを見過ごすことにもなりかねません。

これを裏返して考えてみると、ある意見を言う人が少ない(ように思う)というのは、多く言う人に合わせているように見せかけ、おおっぴらに反対も賛成もしないでいることが多いのかもしれません。

過去に例を見ても、天が動くのか地球が動くかの論争や、幕末での坂本龍馬の振る舞いのようなことを考えるとわかりやすいように思います。

今となっては、天ではなく地球が動く地動説が当然のことになっていますし、坂本龍馬の先見の明に舌を巻くくらいです。

これを当時そのまま出すにあたって、追い風もあるけれど向かい風も強いようなところで、果たしてこういう時にどう振る舞うのが賢明なのかとも考えを及ぼしていきたいものです。

ひとつには、波風立たないように言わないようにする、だから表立って出てこないようにすることもできますし、多数の人の理解を得やすいように部分を省略したり、言葉を言い換えたりしているというのもあるでしょう。

人の思うことや考えることを即座に変えることは難しいもので、いくらか示唆をほのめかすとか、自分の意見はこうだというのをやんわり言うくらいが関の山かもしれません。

このように考えていくと、意外と寡黙な人であるとか、考えを大いに開陳していない人の方が興味深いことを思っているようにも思えてきます。

奇異な意見を持つのはなかなか賛同を得られないのかもしれませんが、その成否を見極めながら静かに支持をする、あるいは、自分もそういう意見を述べるようにしていくと、どこかで風向きが変わるようにも思います☆