委ねられているもの

 

気になるあの人に声をかけようかどうしようか、果たして仲良くなれるかどうか、実際に声をかける前に、いろいろ頭の中を巡るものもあることでしょう。

選択肢としては、仲良くなるためには声をかけてゴハンに誘うのが良い、しかし、声をかけてゴハンに誘ったからといって、必ず仲良くなれるとも限らない。

声をかければ仲良くなれる確率が少なからずあるわけですが、それにひるんでしまうあまり、声をかけなければ仲良くなれる確率はほとんどないことを忘れてしまいがちです。

そうなると、声をかけるかどうかではなく、どう声をかけるのかに問題は移行していくわけです。

そのようにして、分岐していきながら、仲良くなりたいから仲良くなるための方策を編み出していくわけですが、逆に考えると、気になるあの人がこちらに興味がない場合、あくまでこちらが声をかけるかどうかだけに、お互いが知り合うキッカケがないことに思い至ります。

つまり、こちらから声をかけなければ、縁が生じてこないように、縁が生じるためには、こちらが声をかけるかどうかにかかっているということです。

声をかけるかどうか、その選択しかり、決定においても自分自身の判断に委ねられているということになります。

実際に仲良くなれるかどうか、そういう結果のところはやってみなくてはわからないけれども、はじめのキッカケを自分でつくりだせるということは、とてもダイナミックなことではないかと思うのです。

機会という名のチャンスを自分自身によってつくれる、それはどこか万能感をもたらすことではないかとも思います。

そういう発想が元より生じなければ、何も行動には起こすことはないし、誰かと自分が関わることもないわけです。

思いついたからには即座に行動に起こすべし、そのような考え方もできますが、少し手前のところで、行動するだけの思いつきを今は持っていることを大切にしても良いかもしれません。

カードの手札を持っているようなもので、しかるべきタイミングでそれを差し出すことで、きっとステキな機会に巡り合うこともあるでしょう。

今回の場合では、声をかけるかどうか、または、どう声をかけるのかということにおいて、脳内でのシミュレーションが活発になるということ、それ自体がとても有意義な取り組みと言えるように思うのです☆