整理しすぎない

 

何だかわからないゴチャゴチャの状態から、新しいものや興味深いものが生まれるように思います。

あまりにもゴチャゴチャでは、それはただの混沌(カオス)なわけで、その良い感じの程度の差はあるでしょう。

部屋があまりにも散らかっていると、どこに何かがあるかはわからないけれど、あまりにキレイだと、どこに何をしまったのかがわからない、場合によっては処分してしまったということもあるかもしれません。

これは必要なのか判断に悩むものがあったり、あるいは、いつの間にか増えているものもあったりする、それをある程度は秩序立てておくという感じでしょうか。

たとえば、理屈がスッキリと通っているのを目指すけれど、あまりにもクリアになってしまうと説得力が薄まってしまうような、何を言いたいのかはわからないけれど、その熱意や情熱は伝わるというのも大切なことに似ています。

こういうことは、自分の考えや思いでもそうですし、理屈や具体的な何かについて広く当てはまるもので、わかりすぎてしまうというのも、ある意味では考えものということかもしれません。

あまねく光を当てれば、影になるところがなく、全てが見通せるかもしれませんが、それはかえって味気なく思ってしまいます。

人の心にしても、結構いろいろなことが読み取れれば、余計な衝突やすれ違いは避けられるかもしれませんが、知らなくて良いようなことも知ってしまえば、それはまた悩みのタネというものでしょう。

山道を登って頂上に着けば、降りてまた新たな山を目指すように、いろいろスッキリしたいなと思いながら、いざ問題が解決すれば、次なるものを探すようになるはずです。

それでも糸を絡めてしまうような、相反する作用を同時に抱えるのが、極めて生産的な状態になるのなら、直面する問題や課題、悩みのあれこれがあるのは、それだけ取り組む事柄があるというもので、実は恵まれているのかもしれません。

いろいろと悟れば「無我の境地」にも行くでしょうが、それは何にも動じないし、何も感じないことを引き受けるということでもあります。

いつの時も、どうにかならないものか、もっとよくするぞと、ゴチャゴチャした胸のうちにいる方が、前にしっかり進めていけるように思うので、このあたりどうとらえるか思案のしがいがあるなと思います☆