有用なアドヴァイス、たとえそれが耳の痛いようなことであっても、言ってくれる相手を持つ。
あるいは、中身はどうであれ、ざっくばらんに言ってもらえる方が、身に染みつつもありがたみを感じるかもしれません。
そこで、どうしたら言ってもらえるのか、言われること自体もそうですし、中身も真正面から来るようにしたいものです。
もしも自分の言動によって、相手の言う/言わないが左右されているのだとしたら、無論(さりげなく)言ってもらうようにするし、中身も目に見えるように行動に変えていくばかりです。
何かと見聞きするに、自分のことを言う人や、胸の内をスッキリするためなのか不平・不満を多く言う人が多いものの、逆に、しっかり話を聞く人の少なさに驚きを感じるくらいです。
受け止めることもしないで、相手にばかりそれを望むのは、なかなか過酷なことです。
聞き届けてくれないとなると、あるいは、別に利害関係も何もなくなると、言わないもの、それはどうにも致し方のないような気がします。
そして、相手の内側でそういうことが起こっていようとは、露とも気づくこともないはず、それが一層深刻になるかもしれません。
たとえば、自分が進言することを思う時、"この人のためなら"と思うのであれば言うし、あまり何も思わないような場合では言うことすら思い浮かばないかもしれません。
単純に考えていくと、言う/言わないは紙一重かもしれないし、"あなた・私"のどちらということもなく、お互いの関係によるものだなと感じます。
あえて段階を設けてみると、①とにかく言うだけのことは言う、②言ってやらない、反応がないなら次第に言わなくなる、③何も言わない、このように推移するとも思うものです。
確かに、どうでも良いと思うのであれば何も言おうとも思わないわけで、何かしら"言うこと"は相手への期待が相応にあるからだということが透けて見えてきます。
その人が良くなってほしい、良くなるようであれば言うよ、つまりはこういうことなのかもしれませんね。
逆もまた同様にして、自分も良くなっていこう、より良くなっていきたいと思えているか、これを素直さとか謙虚さというのかもしれませんが、いつも殊勝な気持ちでいられるかが大切なように思います。
そして、感謝の気持ちを忘れない、それがもっと大切なところにあるのでしょう☆