思い出に頼って生きるのか

 

人は、思い出に頼って生きるものなのか、

良い思い出さえあれば、それだけで生きていけるのか、

簡単に言うならば、そんな話。

 

今はもう距離的にも、物理的にも、

遠くなってしまった人がいて、

その人のことを思うことが、懐かしむだけなのか、

忘れること自体が、どこか寂しいものであるから、

手放せないだけのものなのか、その線引きは難しい。

 

脳裏に焼きついた記憶は、今もそのままに残っていて、

それはある意味「昨日のように」思い出せもするものですが、

時折、フタが外れたかのように、心に押し寄せることがあります。

 

かなり曖昧模糊とした言い回しが多いものですが、

今でも、一日のどこかで思い出しているような気もしているし、

自分にとって、過不足なく伝えきれるものでもないので、

その遠慮・ためらいの表れと思ってもらえたら良いと思います。

 

個人的には、長らく思ってきたことのひとつ、ふたつですが、

ここまでは、誰かとの関わりにおいての話になります。

 

ここからは、少し風向きを変えながらやっていきますが、

記憶の果たしている役割みたいなのを取り上げたいと思います。

 

これは、これまでの経験が、これからの経験に活用できるというもので、

過去の成功体験があると、それはまた再現性が高く、

まったく異なった事柄でも、同様の成果を出すことがあります。

 

これも、実際的に攻略するべきポイントを押さえるような、

センスというか、目の付け所、勘所が鋭いのが所以ともなりますが、

意外と、この思い出という名の記憶によるものも、

実際には、かなり大きいのではないかと思います。

 

その時の奮起、踏ん張りなどの、諸々の取り組み方と熱意、

それが、自らの肯定感を高めることになって、

どんなことに対しても、しっかり処するということがあるかもしれません。

 

そういうものの方が、計り知れないエネルギーを発しそうで、

本来的に、そういうものは侮りにくいなと思います。

 

では、そういう成功体験みたいなものがない人はどうすれば良いのか、

ある意味、逆転の発想で、これからの成功体験を先行して、

その様子を脳裏に思い描いたり、振る舞いをそれになぞらえてみたりと、

工夫次第では、何とかなることが多いのではないでしょうか。

 

おそらくは、前向きな発想を心がけることで、

事実を書き直すことはできないけれど、解釈は修正が効きそうです。

 

自分に有利なようにするばかりだけではいけませんが、

少し"チート"なくらいが、ちょうど良いかもしれません☆