物事をじっくりと考えるような"思慮深さ"は、
俗に言う、"即断即決"ということとは異なる軸層で、
とても大切なことのように思います。
慎重に考えるとか、本質的に考えられるとも言えますが、
普段からそのような態度や姿勢を持つことによって、
かえって、判断や決断にブレがなくなるような気もします。
今は、スピードの速さや軽やかさばかりがもてはやされがちですが、
そんなに浅かったり早かったりするだけの発想で良いのかと思いますし、
いざ肝心な場合に直面するような時には、
意外と"遅断遅決"の人が多いようにも思います。
これは、自分自身も決して例外でなく、
より精度を上げていきたいところではありますが、
浅慮で、遅いということは最初に回避しておきたいところです。
結構、多くの人の多くの場合に当てはまるのかもしれませんが、
誰かの振る舞いを横目で見て、それに張り合うようなことが多く、
身近な人がマンションの3階に新居を構えれば、
こちらは5階にするというようなことで、
階の高さと、購入にかかるお金は直接関わるわけではありませんが、
何となく、さらにその上をいくような発想があるかもしれません。
しかし、そういうもので張り合ったとしても、
アパートなのか、高層マンションなのかの違いはありますし、
上を考えれば、レジデンスのようなものもあるわけで、
小さいところでの差異を大きく取り沙汰すること自体に、
どれほどの効果があるのかは、総じてわからないものです。
最近、大衆の大衆たる所以みたいな言説を目にして、
これは無自覚的に陥りやすいことだなと思い、
自己点検的に振り返りながら、自覚しておく方が、
何も知らないよりかは、知っている方が良いなと思いました。
自分自身は、そちらに寄っていくだけのことで、
他の人がどうなのかは、それぞれで良いとは思いますが、
一度は触れてみるとか、自分の知らない発想をする人がいるとか、
何となく、想像を馳せることができる人が多い方が好ましいはずです。
迂闊に、"普通は"とか"みんなは"とか使いがちですが、
日頃の自分の思考しかり、身近に関わる人によっても変わり得るので、
その可塑性にも思い至っている方が、良いのかとも思います。
これを奇異に思ったり、何も思わなかったりしても、
それはこちらの伝える伝え方の改善を促すばかりです☆