空は空にして空なり

 

ここ最近思うことの一つに、「空は空にして空なり」があって、

般若心経の一節にあるような「空即是色、色即是空」というような、

何かの虚無を扱うようなことを、心の中ではしています。

 

これには、いくつかの段階というか階層があるのですが、

思考や感情において占める割合が大きいように思います。

 

たとえば、感情豊かに喜怒哀楽を表現するとか、

四方八方に思考が張り巡らしているとか、

こういうものは、巷ではないよりかはあった方が良いとされている、

少なくとも、自分自身はそのように感じています。

 

それによる恩恵や、得られることは多いかと思いますが、

その一方では、何もない=蟠り(わだかまり)や滞りがない方が、

終始潔いことにもなるような気がしています。

 

これは、「密息」や「ちくわ」的発想につながるのですが、

身も心も突き抜けるような一本の管になることで、

風通しも、あるいはその形状でさえもシンプルに保って、

何も残さないようにするのも良いのではないかと考えています。

 

そういう意味では、無用の執着やこだわりのようなものも、

最初から手放すようにすれば、それらに惑わされることもなく、

そういうものがあったとしても突き抜けるだけなので、

何を思うことも感じることからも自由でいられることでしょう。

 

身体全体を一本の管としてみなすように、

部分でさえも風通しを良くすることを考えると、

肉体と外界を隔てるような肌や皮膚が、

網目のメッシュ状であることを思い浮かべるのが、

イメージとしてはとらえやすいように思います。

 

そうして、全体的に空気の通りの良い様子は、

多くの穴のある「多孔体」とも呼べるようになってきます。

 

そうして、澄み渡る一陣の風が吹き吹けば、

風を全体に浴びながら、そのまま通り抜け、

何もなかったかのように振る舞うことができそうです。

 

いちいち風がぶつかってきて、

空気の流れが変わるくらいなら、

突き抜ける方が、よほど爽快であるように思います。

 

何も残さないのだから、何があるわけでもない、

全ては通り過ぎるだけものになるわけです。

 

何も感じず、何も考えないでいる一方、

良いものは脇へ置くようにして確保しつつ、

そうして、要・不要を振り分けでいくことで、

必要なものは、浴びるようにして血肉にするだけのことです。

 

静かな諦観を抱えながら、全ての虚無を蓄えることを、

今しばらくは続けていこうと思います☆