情理を尽くして語る

 

日頃、声に乗せた言葉でも、書きつけられた文章でも、

心が動かされたり、心を打たれたりすることがあります。

 

それは、内容が興味深いものであるとか、

伝える技術として優れているとかあるかもしれませんが、

最終的に何が、その差を分けているのかと言えば、

伝える側の「思いの強さ」の有無のような気がします。

 

それは声の大きさや、強烈な言葉遣いとも関係しつつ、

しかし、それだけに留まらないもっと本質的なもので、

なかなかに名状しがたいものかもしれません。

 

これは、以前に少し異なるカタチで考えたことでもあるのですが、

本能と理性、論理と感情というような対となるもの、

脳で言うところの右脳と左脳にまつわるもので、

さて、あなたはどちらに重きを置いて考えているかという話になります。

 

人によっては、ガチガチに筋道だった論理的思考を好み、

またある人にとっては、もっと直感的な感情表現を好みと、

人それぞれに受け取りやすさと好みとがあると思います。

 

たとえば、多くの聴衆に向けて、言葉を投げかける時、

人それぞれの好みに応じて、その場で自由に変えるということは、

事前に用意してあったものを用いず、即興的にやることになり、

かえって、伝えたいことが散漫になる恐れがあります。

 

そして、そういう場合に限らず、個人相手でもそうですし、

少人数に向けるような場合でもどうするのか、

そこには、自分なりのこだわりや信念みたいなものが、

背後に見え隠れしてくるように思います。

 

自分自身の場合では、論理的なのか、感覚的なのか、

どちらの一方を採るのかと問われれば、

そのどちらも同様に採るという第三の選択をします。

 

少しばかり論を急ぐことになるかもしれませんが、

駆け足で述べるならば、「情理を尽くす」、

最終的には、ここに集約されることになるのです。

 

きわめて論理的であり、きわめて情動的でもある、

その双方が伴っている状態で語ることが、

相手に伝えようとする時のエネルギーとなり得るし、

それこそが「情理を尽くす」ことになるので、

この心構えや姿勢を持っていきたいと考えています。

 

自分自身、論理とか理屈を好むとも見られますが、

意外と、感覚的、直感的でもあると補足しておきます。

 

そうしてまた、大切に思っていることのひとつとして、

これが真髄であるかどうか、議論を展開するというよりかは、

これを真髄として、大切にしていきたい思いがあります☆