感覚と認識において

 

たとえば、遠い道のりを行こうとして、足腰を鍛えよう、そのためには少しずつでも歩いて行こうという考えにいたります。

それが、他の人にとっては同じではなく、遠い道のりを行くのなら自転車やバイクでビュンと行けば良いではないかという考える場合があります。

これが、遠い道のりを早く行くことに重きを置くのであれば後者の発想で良いですが、自分の足で歩くことを優先しているのであれば、ここで発想のズレが生じかねません。

そして、何でだか後者の考えに寄りすぎると、なぜそういう時間のかかること、足腰に負担をかけることをするのかと、逆に叱責されるかもしれません。

こういう、結果としては遠い道のりを踏破するのかもしれませんが、途中がまるで異なる辿り方をするものです。

良かれと思ってやることが必ずしもそうではなく、そして、公正な判断でもなくて、どの考えを軸足とするかで評価の仕方が大きく変わってくるものです。

同じことを取り組む時に、それぞれが最初にどう思っているかで進め方が異なるし、声の大きい人が正しいみたいなことになると、どこかで齟齬が生じるのは致し方ないかもしれません。

自分がどうであるということとは別のところで、何が最善なのかが見えていない、あー、なるほどね〜と思うわけです。

こういうのは主観が強いとそうなってしまうのか、あるいは自分が正しさの権化だと思っているのかはわかりませんが、そうなると力の強いものが正解となってしまいます。

事実として上手に進んだところで、本質的にはいくつもの破綻がある、あるいは、あるかもしれないと思えるのかどうか、強気で攻めるばかりでなくてこういう控えめな態度も、同時に必要かなと思います。

その時々ではどうにかなっても、積み重なっていくうちにヒビが入っていけば、突如として傾いてしまうかもしれません。

最近、気になる言葉で「跂者不立」あって、背伸びをして爪先で立っている人はかえって立つことができないというのがあって、身の丈を知りつつ適度(か、少し無理め)な背伸びがちょうど良いのではないかということになります。

少なくとも自分の中で解決策を練るに、"問題の次数を繰り上げる"発想があれば、これはまたどうにかなることなかと思っています。

それについては、また後日に取り上げられたら良いなと思います☆