拝啓にはじまる文を綴る

 

今は、手書きの手紙を書く人はどれくらいいるのでしょうか、

それに思い至った時、意外と少ないように思いました。

 

手書きで書くのもしかり、手紙を書くこと自体も、

今はメールやLINEが便利であるために、

ほんのひと言、ふた言でのやり取りをして、

紙に書いて、切手を貼って投函するような機会は、

ほとんどないなと多い知るものです。

 

実際に書く機会があろうがなかろうが、

ヴァーチャル的にこの場所を使って書くのに加え、

"拝啓"にはじまり、"敬具"に終わる一連の手紙を、

あくまで、架空(フィクション)のものとして書いてみるには、

一体、どのようなことになるのやらという気がします。

 

具体的な内容があって、個別の誰かに差し出すような場合では、

相手が読んで、考えたり、返事を出したりするように、

次の行動に移ることを想定して書いていくものですが、

宛先不明、内容も自由自在とあっては、

想像力を駆使して、自由闊達にできる思いがある一方、

途中で、「あ、書くことがない」と止まるかもしれません。

 

それとは、少し異なりますが、

リンカーンの手紙」というものがあって、

アメリ南北戦争の時に、北軍を率いていたミード将軍が、

リンカーンの意向とは異なる行動を取った時に、

激しい怒りのあまり、手紙に書いたという話があります。

 

そこで、リンカーンは痛烈な批判をしていくわけですが、

この手紙がミード将軍の手に渡って読まれることはなく、

リンカーンの死後100年が経って、

ようやく、机の奥だか書類の中からだか見つけられたものでした。

 

そして、その手紙には「署名のない、決して送らない手紙」とあって、

最初から出すこともなく、怒りを書き出すだけのものでした。

 

これは、怒りをコントロールする側面もあって、

書き出すから、自分の怒りが目に見てわかると同時に、

そうして、思いの丈を書き出すことによって、

自分の怒りを落ち着かせることもできるわけですね。

 

それに近いものでは、「出すはずだったラブレター」がありますが、

もしも淡い思いがあるのなら、よほどの事情がない限りは、

その相手に届けることが良いように思います。

 

成就するかどうかは、その時次第ではありますが、

たとえ返事がないのだとしても、

自分の中では、ひとつ区切りをつけることができそうです。

 

何はともあれ、手紙を書くこと自体、

日々のどこかでしていけると良いものです☆