今は、表向きは何をやっているかわからないようにして、自分の中の興味や関心を掘り下げていくとどうなるのかを試しています。
目の前のドアを閉じてみることで、また別のところが開くだろう、それはどこのどういう類のものなのだろうかを探っているということでもあります。
それはまた、自分において予測できないことであるので、当然誰に対しても説明ができることではないところが、少し悩ましいところといえば悩ましいところです。
意図的でありながら、だいぶ成り行きに任せてもいるので、その大枠自体はわかるという程度になります。
また、経緯をとらえるようにしてこまめに書き記していくことで、階段の一段ずつ進むのはあまり変化がわからないとしても、やがてひとまとまりのものとして視界が開けるということもあるでしょう。
絵でいうところのスケッチのようなもので、手元のメモ程度であっても、今はそうであるというのを、その時々でお知らせするのも良いかもしれません。
そして、そういうものは必ずしも多くの人の目に触れる必要はなくて、それなりにひっそりとやるくらいで良いようにも思うものです。
これは今にはじまったようなことでなく、わかりやすいよりかはわかりにくい方が居心地が良くて、やたら明らかにすれば良いわけでないと考えている性分も関係しています。
直線的にすっと見渡せるのではなく、どうも一筋ではないとか、どうにもとらえがたいというのは多分にあるだろうなというのはあります。
そんな"わかりやすい"ことが親切ということもあるでしょうが、わからないこと、それはそれでだいぶ深淵であるというように思います。
どちらの良さもそれぞれにあるので、自分においてどういう兼ね合いが良いのかは知っておくのは前提としてあります。
ただ、わからないからといって手を抜いて良いわけでもなく、よくわからないなりに日々積み重ねることはそうするし、継続することもまたそうしていかなければなりません。
自分なりの強い意志がないと、それは怠けるということにもつながってしまうので、それはしっかり自覚していきたいところです。
それは何もやっていないのではなく、何かをやっているが特定の何かのためではないということになるのでしょうか。
これまたわかりづらいことになっているでしょうが、やがて紐解けることもあるのかなと見てもらえたら幸いです☆