探り求めるように

 

「相手のことを知りたければ、まずは相手の話にしっかり耳を傾けましょう」と多く言われます。

何を言おうとしているか、あるいは、物事に対するとらえ方を知ることが、そのまま相手の人となりを知る手立てになるものです。

それが、お互いに話すことよりも聞くことの方に重きを置いているのであれば、それぞれに率直に話せる部分は自ずと多くなるように思います。

そして、それに対して自分がどう思うのか、自分と似ているところがあるのかはあくまで次の段階であって、理解や共感の前には"受け止める"ことが大切であるように思います。

これが、聞くと話すの前後が入れ替わってしまうと、「これだけ話しているのにわかってもらえない」どころか、自分の話すことばかり気持ちが行って、お互いに話をしっかり聞こうとしないかもしれません。

そうなると、話の内容も気持ちと同様、すれ違うばかりになるということもあるでしょう。

理屈や道理としては簡単ではあるものの、実際の場面ではなかなか簡単にはできないところに、真理であるところの奥深さを感じてしまうものです。

そこに多少付随はするでしょうが、自分のことを知ってほしいとか、大切にしてほしいとか思いながらも、自分の思ったり考えたりしていることを、しっかり表していないことも案外多いのではないでしょうか。

そして、"知らぬは自分のことばかり"というように、自分の心の中が一体どのようになっているのか、外に理解を求めることはしても、内に探るということは少ないような気もします。

日本では、"暗黙の了解"とか"察してほしい"で何とかなっていることも多いのでしょうが、やはり思うところがあるのであれば、しっかり言葉や態度に出していく必要があるでしょう。

そうでない限りは、自分の思いみたいなものは、どこまでもカタチとなっていかないようにも思うからです。

声に出す発言であれ、こういうところに書きつけるものであれ、普段から何らか意識的に取り組むことは必要とは思います。

これを読んでいる人がどのくらいいるかは定かではありませんが、それは結局のところ読む人の裁量であって、少なくとも、自分が日頃から何を考えているのかをできるだけ言葉に置き換えることで、頭の中だか胸の内を明らかにしていこうという思いは強くあります。

そして、その言明はわかるとか、なるほどこういう考えをしている人もいるのかと、何かしらの"気づき"となれば嬉しいものですが、その前にはある程度の分量を提示していくことでしかはじまらないような気もしています。

"ひとりごと"も、誰か聞いている人がいるだろうと思っている側面もあるそうなので、それに似たものかと思ってもらえたら良いなと思います☆