時期ことの差異

 

自分で気づいているのかどうか定かではありませんが、どうにもぼんやりとした様子の人を見ることがあります。

ぼんやりに限った話ではなく、それは自分の立ち居振る舞いがどういうものであるのかをわかっていない、それゆえに自分の言動が跳ね返ってくることを知っていないとも見て取れるものです。

年齢ということもあるでしょうし、その人にとっての段階ということもあるでしょう。

 

以前はこうだった、本来はこうであるはずだと言われたところで、今がそうでないように見えるのであれば、どうにも空回りする発言のように思います。

あるいは、今は鳴りを潜める時期であるとか、今は果敢に攻める時期だというのはあるかもしれません。

大切なのは、自分で意識してやっていけるように気づいていて、あえてやっているくらいということになる気がします。

あるいは、人が時間的な生き物であるととらえれば、その時期ごとに自分がどうであるのかを知ると同時に、どうでありたいかを考えておくと良いように思います。

先の話ではありませんが、どうにも自分の視界に紗がかかっているような様子では、先行きも見通せないでしょうし、ますます見えなくなるようでは何もかもが不明瞭になってしまいます。

目を開いて、あたりを見渡すことからしっかりはじめていきたいなと思いますが、こういうのは普段のどういう心がけ・姿勢から生じるものなのかも気になるところです。

これは、成長に関して貪欲であるとか、刺激を得ることに敏感であるとか、どういう言い方をするにしても今よりもっと良くなろうということの現れなのかもしれません。

今の連続によって、自分なりの歩みが形成されているわけですが、逆説的には、今をどう連続させていくか、その重ね方次第ではどう歩んでいくかの道筋が、いくつも分岐していくようにも思います。

昨日の続きが今日で、今日の続きが明日だとしても、同じことを繰り返さなければいけないわけでもないので、急に思い立って遠出をするとか、いつもと異なることをしても構わないでしょう。

また、時間を区切って、今の取り組みは何だ、どう取り組むのが最適かなど、明確に切り分けても良いかもしれません。

こういう、時間の感覚であるとか、自分の言動を省みるとか、少し大きな枠組みで物事を考えていくのが、もっと自分を押し拡げるために必要でありそうです☆