コトの真偽はともかく、何かしらの噂話が立つ場合、
まったく根も葉もないところから出るというのは、
おそらく考えにくいことのように思います。
火のないところには煙は立たないように、
煙があるために火が着いている必要があるでしょう。
そのように考えていくと、煙と火の有無は密接で、
それなりの根拠があるということになりそうです。
だいたい人の不幸とか失敗は"蜜の味"がするもので、
しかも、噂話の類においては、男女の不義・密通が多く、
そして、それに携わっている人がひた隠しにしたいほど、
周囲を取り巻く人の関心は高まるような気がします。
結構、こういうことの察しの良い人はいるもので、
自分自身は、普段は無縁なところに生息しているだけに、
意外と気がつかないし、ほとんど気にしないものですが、
後日談的に、「あ、そういうことですか」となることはあって、
知りはしても、それ以上でもそれ以下でもありません。
たとえ、自分自身でそれに思い至ったとしても、
当人同士がどうにかすれば良いだけなので、
こちらが当事者として巻き込まれでもしない限り、
何故関与しなくてはいけないのかという気になるものです。
そういう点においての、人のやること/なすことに関しては、
寛大というのか、無関心というのかは、判断の難しいところです。
もしも、自分自身が、気の迷いか運命的な出会いだかに遭遇すれば、
果たして、どのように振る舞うのかは少し予測しておくと、
事前に心構えのいくらかはできそうですが、よくわかりません。
それでも、前述の火と煙のようなこともあり得るので、
自分の気持ちをまんざら無視することなく、
それでも、実際的な折り合いを加味しながら、
決して不利にならないように振る舞うような気がします。
あまり、どうにでもなれと開き直るようなことはせず、
しかるべき配慮を施す意味では、小心者たる本領の発揮です。
それでも、一気呵成に勢いづくこともあるとすれば、
自分自身の気持ちが着火するかどうかにかかってきそうです。
人間、日々熱く生きようとしていれば、
何かしら摩擦や燃焼はするでしょうから、
一切何もないことの方が寂しいことかもしれません。
結局はどう締めくくるのが妥当かは思案のしどころでしょうが、
大きい意味合いにおいては、烈火のごとく焼き尽くせ!
そのように言いたい自分がいるのもまた、ひとつの事実なのです☆