現代的感覚を越える

 

それは、時代の流行、変化と言うのでしょうか、

その時代が、歴史の全体から見てどういう位置づけなのか、

「〜時代」、「〜主義」と呼ぶ分けることがあります。

 

少しばかりお堅い領域である、

国内外の政治や経済ということのみならず、

文化的なところでも、特徴づけるものが多くあります。

 

1920年代から起こっている動きとして、

近代主義モダニズムと呼ばれるものがあって、

伝統からの脱却であるとか、前衛的であるとか、

新たなものを模索するという試みがなされています。

 

美術や建築の分野で多く語られるのかもしれませんし、

その詳細については、特に言及はしません/できませんが、

それは、同時代的に包括する大きな潮流であるから、

子細を述べるのに、十分な知識も余白もないということです。

 

ただ、ひとつだけ言いたいことがあるとすれば、

どれだけ前衛的、先鋭的なものであったとしても、

時間を経るにつれて、どうしてもその新奇さは失われ、

その渦中にいる人たちでさえ、年齢を重ねるうちに、

いつのまにか権威的になることもあるかもしれません。

 

また、そのようなモダニズムを継承したり、

新たに越えたりような動きとして、

ポスト・モダン、ポスト・モダニズムが出てきています。

 

ある意味では、反抗(アンチ)とか反発(カウンター)として、

一定の強さで、モダニズムを意識していることから、

呼称の連続性とは裏腹に、両者は相容れないのかもしれません。

 

そのように、対立はするものかもしれませんが、

お互いが強烈に意識することで一層、

こういう動きが刺激されるということで、

時代の大きな"うねり"となり得るのだなと思います。

 

「ポスト」という言葉は、郵便のあの赤いのではなくて、

ここの語義的には「〜の後の」という意味になります。

 

そうしてまた時間が経つにつれて、現代へと続くのですが、

果たして、「"ポスト"ポスト・モダン」は訪れているのか、

あるいは、別のものに成り代わっているのかという、

素朴な疑問が頭の中を、スーッと過ぎります。

 

いつ、そのポストに突入するのか、

あるいは、別の流れが主流となっているのであれば、

その台頭しているものと重複するということになります。

 

個々人が生きていく中で、無自覚に歴史の証人となっても、

何をどうするのか認定する、審判みたいな人はいないのだから、

流れる時間の中で、少し過去と現代を行ったり来たりしてみると、

このような、いびつさ、連続体としての不完全さを感じます。

 

そうしているから、突然変異のように時代の分岐点とか、

大きな転換点が、突如起こることもあるのですから、

温故知新と唱えながら、過去の出来事に学び、

これからの未来へと、今から続くようにしていきたいものです☆